春樹イスラエル再話

もう随分昔に読んだので出典をすっかり忘れてしまったのだけど、田辺聖子がある女性について憤慨を込めて書いていたことがある。定年退職することになったその女性へのプレゼントを相談されたので大胆な案を提示したところ、相談してきた若い男性たちが「いや、彼女はただのオバサンですから」と言ったというのだ。そんなことがあるか、と田辺は反論する。
その女性は昭和ヒトケタ生まれだった。世界恐慌のさなかに成長し、戦争とともに思春期を迎え、青春は敗戦という価値観の大転換のさなかにあり、高度経済成長とともに人生の充実期を送ってきた。戦争のために結婚相手が見付からず、結婚が当たり前の社会で働き続けることを選んだ。そういう人が「つまらない平凡なオバサン」でありえるか、と。

その同じようなことが、村上春樹についても言えるのではないかと思う。1949年にベビーブーマーとして生れ、戦後民主主義にどっぷりつかって成長し、10代はあの60年代とともにあり、大学紛争のさなかに早稲田のそれも文学部に在籍し、就職せずにジャズ喫茶を開業することを選び、10年のちに小説家になることを選んだ男である。政治とのかかわりについて詳しく考えず、政治的センス(あるいは政治的ノンセンス)を身につけていない、なんてことがありえるだろうか?

そもそも、作家に直接的な政治性を期待するというのは…、

まあ、そんなことを言っていても仕方がない。村上春樹がいかに政治的であるのか、どのような意味においてそうなのか、「パン屋再襲撃」でも読みますか。



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パン屋再襲撃」(短編集『パン屋再襲撃』に収録)はややこしい小説だ。重層的な読みを要求する一方、それを拒絶するような身振りも見せる。まあ、そういうのは村上春樹にはいつものことなので、ためらいは無視することにして、それから「ネタバレ」なんていう陳腐な概念も忘れて、ちょっと読解。まずはあらすじだ。


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主人公は結婚したばかりの若い男性で、ある夜夫婦揃って空腹のあまり寝付けなくなってしまう。食事はしたのに飢餓感があるのだ。不穏な空気も流れる。そこで、彼は妻に若いころのパン屋襲撃の話をする。友人と二人で食料を強奪すべくパン屋を襲ったのだが、逆にパンをプレゼントされてしまい、失敗に終わったのだ。
話を聞いた妻は憤然とこう宣言する。「もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね」。
それから妻は極めて手際よく強盗の下準備を整え、二人は深夜の町に車を出す。もちろん営業しているパン屋はない。妻はマクドナルドに目標を変え、襲撃を実施。二人は首尾よくハンバーガーの強奪に成功する。いくつかを食べると、空腹感も夫婦の危機も消滅する。
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と、こういう話である。およそとりとめもない。だが、この話はもうすこし解読することが可能だ。

まず再のつかない「パン屋襲撃」の話がある。主人公は若いころ友人とパン屋を襲った、それはなぜか。お金がなかったからではない。いや、現に金はなく、腹も減っていたのだが、それを解決するにはパン屋を襲う以外の方法がある。そういうことではないのだ。

「どうしてそんなことをしたの?何故働かなかったの?少しアルバイトをすればパンを手に入れるくらいのことはできたはずでしょ?どう考えてもその方が簡単だわ。パン屋を襲ったりするよりはね」
「働きたくなんてなかったからさ」と僕は言った。「それはもう、実にはっきりとしていたんだ」
「でも今はこうしてちゃんと働いているじゃない?」
(「パン屋再襲撃文藝春秋版、p13)

妻の最後の問いかけについてはしばらく置く。派遣村とか、そういうことを考えるのもやめよう。ここで言われているのは、パン屋の襲撃がひとつの政治的立場として選びとられたということなのだ。「パン屋襲撃」を読むと、それが実にはっきりする。

実は、「再のつかない『パン屋襲撃』」は村上春樹の初期の短編として存在している(糸井重里と共著の『夢で会いましょう』に「パン」として収録)。そこでは政治的キーワードがよりはっきりしている。襲撃されたパン屋の店主は共産党員なのだ。

ここで誤解を避けておくことにしよう。彼らは右翼だから共産党員のパン屋を襲ったのではない。作中にも「ヒトラー・ユーゲント」という言葉が出てくるのだが、それは単なるジョークだ。彼らは極左なのだ。そしてパン屋であることが共産主義者にとってはいかにも中途半端であるから襲ったのである。
理想的な共産主義社会においては、パン屋というものの存在はありえない*1。もちろん、パンを焼く人はいてもよい。しかし、この行為はパンを焼くことの喜びと、人々に貢献することの充実感からなされるべきであって、貨幣を媒介とすることは間違っている。もちろん、人々はパン以外の何か(喜びと充実感から生産され、パン職人の生存に貢献する何か)とパンを交換するだろう。だが、それは貨幣を通じた交流であってはならない。

だから、彼らはパン屋を襲うのだ。もちろん、言うまでもないことだが、村上もその渦中にいた70年代の学生運動では、共産党は「ごりごりの保守派」として敵視されている存在でもあった。だが、作中では共産党員は彼らの想像を越えて複雑怪奇である。

店主は、まず無償でのパンの提供を申し出る。だが、主人公たちはそれを拒否する。なぜなら、それでは交換にならないからだ。思想的に正しくない。彼らの提案は店主を殺してパンを奪う(敵意とパンの等価交換w)というものである。だが、それは店主によって拒否される。彼は代案としてパンを与える代りに二人を呪うという提案をする。その案が流れたあと、店主は音楽を持ちだしてくるのだ。

「どうだろう」と主人が口を開いた。「君たちはワグナーが好きか?」
「いや」と僕が言った。
「いいや」と相棒が言った。
「好きになってくれたらパンを食べさせてあげよう」
 まるで暗黒大陸の宣教師みたいな話だったけど、我々はすぐそれに乗った。少くとも呪われるよりはずっと良い。
「好きですよ」と僕は言った。
「俺、好きだよ」と相棒は言った。
 そして我々はワグナーを聴きながら腹いっぱいパンを食べた。
(「パン」講談社文庫版、p163)

もちろんワグナーもまた政治的記号である。なぜなら、この作曲家の作品を愛し、ほとんどテーマソング的に使用したのが、他ならぬナチスドイツ政権だったからだ。党大会でも使ったし、宣伝映画でも使った。その勢いでソビエト共産党に攻めかかってきた。つまり、こんがらがっているのだ。共産党員でありかつパン屋、しかもワグナーの愛好家。どうしたら良いのか。

しかし、その見方は一面的であるとも言える。ワグナーは別にナチではなかったからだ。彼はナチスが勃興するはるか以前に死んだ。その思想には確かにファシズムの萌芽になった部分があるが、彼が直接何かに加担したわけではない。それ以外に、彼は愛や理想について多くを表現したし、音楽はとても美しい。何がいけないのか。

何もいけなくない、というのが主人公たちの結論で、だから彼らはレコードを聞き、パンを食べた。つまり、ポリティカルコレクトネス批判を先取りしたような短編がこれだ。腹は減るし、音楽は綺麗だ。店主は金銭でなく好意を要求している。ならば、それを交換すればよい。そこにややこしい話を持ち込んでもどこにも行けない。もちろん、軽いジョークに混じえてのことなのだが。


さて、それを踏まえた上での再襲撃である。「再襲撃」では主人公はもう働いている。政治的な転向が行われている。だが、主人公はまだ襲撃にこだわっている。彼はその体験を「呪い」と表現する。妻はそれの解消を提案し、夫婦はパン屋のかわりにマクドナルドを襲う。かつての割り切りは妥協であり、誤っていた。政治的、思想的な純粋性を取り戻さねばならず、それなくして幸せはない。そのために襲撃がやりなおされる。そういう話なのだ。

言うまでもなく、一つの記号としての大転換が行なわれている。パン屋からマクドナルドへ。共産党員から大企業の社員へ。

「金はあげます」と店長がしゃがれた声で言った。「十一時に回収しちゃったからそんなに沢山はないけど、全部持ってって下さい。保険がかかってるから構いません」
「正面のシャッターを下ろして、看板の電気を消しなさい」と妻は言った。
「待って下さい」と店長は言った。「それは困ります。勝手に店を閉めると私の責任問題になるんです」
妻は同じ命令をもう一度ゆっくりとくりかえした。
「言われたとおりにしたほうがいい」と僕は忠告した。

ビッグマックを三十個、テイクアウトで」と妻は言った。
「お金を余分にさしあげますから、どこか別の店で注文して食べてもらえませんか」と店長が言った。「帳簿がすごく面倒になるんです。つまり−」。
「言われたとおりにしたほうがいい」と僕はくりかえした。
(「パン屋再襲撃文藝春秋版、p27)

ここでは、もはや対価云々は全く問題になっていない。交換という問題すらない。店長が気にしているのはお金でもパンでもなく、規則と帳簿のことだ。全てが巨大組織と経理の技術的問題として理解される。状況は一変しているのだ。

時代が変ったし、年を取ったし、立場も変った。政治的・思想的な純粋性というものは、それを真剣に取るにせよ、シニカルに取るにせよ、失われた。人々は政治について語るかもしれないが、もはやそれはオマケでしかない。社会を動かすのは巨大産業と消費者であって、その事実は動かしようもない。志は失なわれていないかもしれない。だが、それを実現するすべはない。我々はこの、全てが消費に換算される世界の中で、何とかやっていくしかないのだ。「パン屋再襲撃」が語るのは、概ねそのようなメッセージだ。

言うまでもなく、これは現実社会のほぼ正確なトレースである。少くとも、このように社会を見たひとがいるのは事実だ。例えば、政治的なフォークから内省的なロックへの転換。ボブ・ディラン井上陽水。映画や小説におけるミニマリズム。60年代には多くのものが勝ち取られたが、闘いはおおむね敗北に終り、人々は内面に向けて沈潜した。村上春樹はそのような状況をほぼ正確に写し取っている。「再襲撃」において勝ち取られるものは、結局のところ単なる家庭の平安にすぎなかった。

以上を確認して、ではもういちど昨日の問題に戻る。


  ※  ※  ※



闘い。それがもうひとつのキーワードなのだと思う。

今回、授賞に際しての政治的アピールを求めるというのはどういうことなのか。というか、それ以降彼はどうすればよいのか。政治的なコミットメントに入っていけばよいのだろうか。しかし、それならばこれまでの彼は何だったのだろう。パレスチナ攻撃は昨日始まったわけではない。既に60年代にその問題は可視化しており、だからこそ日本赤軍は中東での活動に転化したのではなかったか。
つまり、我々がエルサレムでの政治的アピールを求めるというのは、「なぜお前は革命家ではないのか」と問うということなのだ。お前は武装闘争の道を選ばす、市民運動家にもなからなかった。それはなぜなのか、と。ソンタグの場合は話は簡単だった。彼女は小説家というよりは思想家であり、ずっと反差別の闘いに身を投じてきた人だからだ。だが村上春樹はそうではない。

彼が革命家ではないのは、小説家だからだ。それはもちろん政治的正義の否定ではない。そもそもこの世界に政治的でないものなどありえない。生活の全てが政治的であるというのが村上春樹の世代の基本的な、そして根本的な世界観である。非政治的な身振りをすることがあるが、それすら政治的な選択である(「僕らの言語がウィスキーであったなら!」だが、そうではない)。
だが、そのように考えたとしても事が単純でないのなら、あらゆる政治的記号の中で身動きが取れなくなるのなら、全てが政治的中立性(というか、非政治性)を装ったシステムに政治的に取り込まれるということであるのなら、そしてその中ですら「パンを食べなくてはならない」というややこしい状況があるのなら。
それならば、政治を職業とするよりも小説を職業とすることで何かをなしとげようと考えた、ということなのだ*2

そのような選択をしてきた作家に対して、そしてその人が辞退も欠席もしないという選択をしたことに対して、我々は何を要求しうるだろうか?あるいは、彼がまことに小説家的に、そして語の最も正確な意味合いにおいて政治的に、行動すると期待しないことができるだろうか?

僕はそうは思わない。ちょっと署名するとか、軽くイベントに参加するとかいうのとは話が違うのだ。彼は考えに考え抜いているはずだと、僕は思う。

まあ、結果を待ってみましょうよ。


【追記】忘れてた。この記事は昨日の分の続きである。これ。http://d.hatena.ne.jp/le-matin/20090127/p1

*1:ここで現実に存在した共産主義国家のことは論外にしておく。いずれにせよ、あれは共産主義の理想からは遠い。あくまでも幻想の話である

*2:「もちろん革命は正確には職業ではない。しかし政治が職業となり得るのなら、革命もその変形であるはずだった」『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド