6. 個人的であること

村上春樹エルサレム賞受賞スピーチは良かったと思う。僕は、今年(09年)の1月27日に記事を書いて以来「この作家の言うことを真剣に考えてみようよ」ということを主に言ってきたのだけど、スピーチをきっかけにそう思う人が増えたのではないかと思う。

ただ、それを聖典のように扱う必要はない。彼は欠点もミスもある単なる人間だし、仮にそうでなかったとしても完全無欠な思想や演説などというものはこの世に存在しない。あれもひとつの参考として考えていけばよい、という話にすぎないのだと思う。

というわけで、このシリーズも今日で最終回。そろそろまとめに入ります。今日はすこし小さめに。

僕は好みを言っただけだよ

ある意味で、それはとても奇妙なレトリックだ。「always on the side of the egg」に、こんな一節がある。

Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

(けれど、ここでとても個人的なメッセージをひとつ送らせてください。私が小説を書くときに心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼っている、というわけではありませんが、心の壁には刻んであります。それは、こういうものです)

もちろん、このあとにかの有名な高い壁とタマゴの一節がくる。注目されるのは、ある意味でスピーチの中核をなすともいえるこの一節が、個人的なメッセージ、個人的な信条として持ち出されていることだ。

もちろん、それは技法上のものだとは言える。これは作家がファン(というか、賞をくれた人たち)に向けて送っているメッセージなのだから、気に入らない人は聞かないでくれ、というスタンスを取るのは当然だろう。また、村上春樹はずっと自分の主張を声高に言う人ではなかった。更には日本人らしい謙虚さの現れでもある。
だが、そうは言っても、僕はこれには割と大きな意味があると思う。いかなる主張も、意見も、行動も、全て「個人的なもの」として表現しようとすること。また、そうでなければならないと考えること。それは今の日本の社会の重大な特徴ではないだろうか。そして、村上春樹が受け入れられる大きな理由のひとつは、実はそこにあるのではないか。

僕は、そういう社会的風潮は決して正しいことばかりだとは思わない。それは人を全て主体として平等に扱うことであると同時に、他者との交流を絶ち切るものとしても機能するからだ。「あなたはそう思うかもしれないが、私はこうやはり思う」という表現によって僕らは自由を手に入れる。だがその意見は「あなたは正しくないと言うが、私は間違っていないと思う」とも言い変えられるし、「あなたと私の考えは両立しないが、そんなことは知ったことではない」とも言い変えられる。異った意見が多数存在することは原則としては素晴しいことだが、いつもそうだというわけではない。コミュニケーションと譲り合いが必要な時もあるはずだが、そういうのは水面下でこなすことになっていて、表向きはいつも「私は」「個人的には」で話が進む。
実際におこなわれているのは、もちろん、力のあるものがそうでないものを押し切るということだ。弱者は何かを強制されたことを表明することさえできない。抗議すれば、相手に対してだけでなく、「全ては個人的な意見の個別的な表明である」という原則にまで盾つくことになるからだ。
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「お寿司を食べようようよ」と彼女が言う。
僕は、中華がいいんだけど」とあなたは言う。そしてじっと財布に目を落す。
「じゃあいいわよ、またホイコーローで」と彼女は言う。
「怒ることないじゃないか。僕は自分の好みを言っただけだよ」
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そういうことだ。
もちろん、僕はことを単純に問題視するつもりはない。個人が尊重されればされるほど孤立化が進む、というのは僕らの世界の基本的な矛盾のひとつだ。そして、基本的な矛盾は個人の心掛け程度では解消されない。ただ、村上春樹を理解しようとするときに、それは偏差として排除しておくべきだろうと言いたいだけだ。そこに共感点を見い出すのはポジティヴなことではないし、卵が持ち出されたときにそういうことが言われたかったわけではない。

来るべきなにかの、ささやかな胎動

村上春樹の思想の流れについては前にも書いた*1。ただ、あれは長くてかつ整理できていない部分ある。なので、もういちど単純にまとめよう。

僕は、村上春樹の思想の発展を、大体こういうふうに捉えている。

離脱期 再参入期 定着期
敵対するもの 観念の体系 内なる衝動、暴力的な体制 社会的な悪意・暴力
中心的な人間関係 個人 カップ 親子・兄弟
構築されるもの 個性的な価値体系 人生についての物語 記憶の集積体

離脱期は、おおむね『風の歌を聴け』から羊三部作、『ノルウェイの森』あたりまで。再参入期は、『太陽の南、国境の西』から『ねじまき鳥クロニクル』をへて『スプートニクの恋人』あたりまで、定着期は『海辺のカフカ』、『アフター・ダーク』のへんで、この先はまだ不明、という感じだ。

もちろん、簡略化することで見失なうものは沢山ある。たとえば、この図式では死の問題が扱えない。また、そんなにきっぱりとテーマが分けられるわけでもない。悪意の話は既に『風の歌を聴け』に出てきていたし、『ノルウェイの森』だってカップルの話である。だからあまり良いことではないのだ。でも、何もないよりはまし、ということも時にはあるはずで、なのでとりあえず便宜的にこういう形にしておく。

離脱期。村上春樹はまず、既存の価値観を否定することからスタートした。直接のきっかけとなったのは、おそらく学生運動の(あるいは、における)挫折だ。団塊の世代は否定の連続だったのだ。彼らは戦前の価値観を否定する戦後民主主義の中で育ち、それを否定してマルクスレーニン主義を選び、それも否定して急進的なマルクス主義に走り、あげく敗れた。あとにはもう、何も残っていない。だから、彼らはゼロから何かを始めることを選んだのだ。他にも色々な動機はあったに違いないが、一番の大筋はそういうことだ。
だから、初期の作品は様々な否定の身振りに満ちている。それは、例えば圧倒的な喪失感であったり、無意味を意味に偽装するニヒリズムであったりした。そして、主人公たちは何にも属さず、体系や意味を押し付けてくるものを闘っていた。「羊」や「組織」「工場」といったものがそれだ。もちろん、個人がベースになっていた。集団には価値観が伴うからだ。孤立した個人の生きざま。だが、それだけではなかった。彼らは自分たちの世界を作り始める。自律というテーマが次第にはっきりと現れる。

参入期。このころから、キャラクターが名前を持ち始める。一番初めは「いわし」だった。猫の名にしてはずいぶん変だ。「アメ」「直子」「クミコ」「加納クレタ」「島本さん」「綿谷ノボル」。名前は次第に奇妙な記号であることをやめ、リアルなものになってゆく。それとともに主人公は築きあげた世界の中に他者を導き入れ、カップルを形成しようとしはじめる。始めは何か欠けているものを補うものとして。次第に何かをもたらしてくれるものとして。
彼らはもはや失われたものではなくなり、損われたものとなる。「敵」は性や暴力のような内的なものや、直接的な暴力で支配しようとする体制になった。主人公たちは内と外に向けて闘うのだ。初期のころにあった個人的な価値観の体系は消え、登場人物たちは物語る、つまりナラティヴを構築しようとする。そうすることによって彼らは救われるのだ。それは正義によりかかることのできない村上春樹の文学にもたらされた達成目標となった。

定着期。 三人称が本格的に導入される。主人公たちはありきたりの背景をもつようになり、小説はどんどん俗っぽくなった。独特の語り口はほとんど消え、その代わりに何ともいえない味が出てくるようになる。非日常的な要素は極限まで切り詰められ、舞台もさまざまな階層へと広がった。肉体労働者、IT企業、障害者、地方都市。キャラクターたちは自分の出自に注意を向けるようになり、親子や兄弟の関係がクローズアップされる。
敵は、おおむね実社会に存在する組織やメカニズムの暴力的な側面、あるいはそれらを抽象化したものになる。彼らは社会を自らの構成要素として受容しようとするのだ。ナラティヴは相変らす重視されるが、整序された物語りというよりも、記憶の集合体としての意味の方が大きくなる。それこそが自己の核心であるとされるのだ。「世界の終り」は図書館の一室となり、命の焚火となる。

村上春樹の最も興味深く、特徴深い点は、累積しているということだ。達成されたものが捨てられることはなく、変化がつけたされる。たとえば、以下の台詞。

「時間をかけて、自分の世界みたいなものを少しずつ作ってきたという思いはあります。そこに一人で入り込んでいると、ある程度ほっとした気持になれます」

この一文は、たとえば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」の台詞であったとしてもおかしくはない。文庫・下巻の99〜100ページあたりに差し込んでみる。

「あるです。私は先ほど、二、三ヶ月以前のことですが、二十六人ぶんのヴィジュアル化したブラックボックス=思考システムを全部見なおしてみました。そしてあることに気づいたのです。それはあんたのぶんがいちばんよくまとまっておるし、破綻もないし、筋もとおっておるということでした。ひとことで言えば完璧なのです」(中略)
「信じられないな」と私は言った。「どうしてそんなことが起り得るんですか?」
「いろんな要因があるです」と博士は言った。「幼児体験・家庭環境・エゴの過剰な客体化・罪悪感…とくにあんたは極端に自己の殻を守ろうとする性向がある。違いますか?」
「時間をかけて、自分の世界みたいなものを少しずつ作ってきたという思いはあります。そこに一人で入り込んでいると、ある程度ほっとした気持になれます」

だが、実際はもちろん違う。これは最新長編、『アフター・ダーク』の一節なのだ。そこではこうなっている。

「時間をかけて、自分の世界みたいなものを少しずつ作ってきたという思いはあります。そこに一人で入り込んでいると、ある程度ほっとした気持になれます。でも、そういう世界をわざわざ作らなくちゃならないっていうこと自体、私が傷つきやすい弱い人間だってことですよね? そしてその世界だって、世間から見ればとるに足らない、ちっぽけな世界なんです。段ボール・ハウスみたいに、ちょっと弱い風が吹いたら、どっかに飛ばされてしまいそうな…」

『アフター・ダーク』講談社文庫版、p246

ここでは主人公は女性で、三人称で語られ、しかも成長しようとしている。作家は過去を切り捨てるのではなく、一本の道を延長していこうとするのだ。

それで、再び壁とタマゴの話になる。あれはどこから出てきたのか?

Each of us is, more or less, an egg.

壁=システムが敵の系譜に連なるものであることはすぐわかる。心をもたず、人に普段ならやらないようなことをさせるもの。では、タマゴ=個人のほうは…というと、これもまたとても古くからあるものだ。村上春樹はそもそもの最初から個人を尊重することを掲げて作品を書いてきた作家だった。その個人が主人公自身で、しかもそれだけだった頃には、個人主義、というより利己的な虚無主義者だと思われていたわけだが、それは克服された。
というよりも、個人主義は既存の価値観を「システム」として否定することの副産物だったのではないかと僕は思う。社会主義だの資本主義だのが提供する正義や正解を徹底的に拒否するなら、個人を基盤にして発想するほかない。個人とシステムは版面の表と裏なのだ。表を彫り上げれば、必然的に裏が生まれる。そういう関係だ。
そして作家は、こつこつと世界を彫り上げてきたのだった。何にも頼らず、自分の手で触ることができ、目で見ることができるものだけを使って。それは一度消し去ってしまった世界を再建することでもあった。そして、ナラティヴを形成し、記憶を核にするという行為を通じて、ようやく家族の存在を確かめることができるところまで来たわけだ。だから、村上春樹にとっての個人というのは、僕らが知っているような個人主義におけるようなのとは違う、もっと非常に根本的なものなのだ。そして、その本質性というのは、「壁とタマゴ」の価値観と、それに吸い寄せられる人々にも必ず影響を及ぼす。それはどういうものなのか。このシリーズの最後で、僕が考えてみたいのはそのことだ。