「シン・ゴジラ」の感想の感想

僕は「シン・ゴジラ」を見ていない。最初のころにミリタリーオタクさんやSFファンさんの感想が出始めた時点で、「あ、これは組織ポルノ」「日本社会ポルノ」(「ウォー・ポルノ」というような意味で)だな、と思ったので、自分の中のそのような欲望が刺激されることを恐れたからだ( 僕はかつてミリオタでSFファンだったので、そのへんについては慎重でありたい)。 なので、これは映画の、ではなくて、映画の批評に対する感想だ。そういうものは卑怯でダメかもしれない。そう思う人は、読まれないといいと思う。

さて、そのうえで。

この評論(『シン・ゴジラ』、戦後補完計画)http://d.hatena.ne.jp/naishinokami/20160731/1469985119 を読んで、良い評論だな、と思った。 しかし、同時に思ったのはここに描かれている「シン・ゴジラ」は『半島を出よ』と似ている、ということである。
『半島を出よ』は2005年に村上龍が発表した、2010年の日本を舞台にした小説だ。そこでは「北朝鮮」が攻めてくる(むろん、これは現実の朝鮮民主主義人民共和国ではなく、村上龍が想像し、かつ彼が持つ「占領軍」と「共産主義」のイメージを込めて創作した対象である。なので、ここでは彼の用語をそのまま使って「北朝鮮」と書く)。作中の日本政府は全くの無能で、右往左往したあげくに九州の一部を占領されてしまう。

北朝鮮」が露骨な暴力性に基づいて占領地を支配する(しかし、それはある種の正義でもある)のに対抗し、結果的にそれを排除するのは政府ではなく、社会からはみ出したアウトローたちだ。その結果、侵略者は排除され、日本はよりよい社会に生まれ変わる。 言うまでもなく、『半島を出よ』を評価するのは難しい。なぜなら、そこには「『北朝鮮』は暴力的な侵略者で敵だ」という、分かり易すぎる右翼的なメッセージが含まれているからだ。だが、それを取り除いてしまうと、先ほどの映画評がまとめている「シン・ゴジラ」観との間にはそれほどの差はない。 凶暴な敵と、それに対処できない政府、そして問題を解決する日本の底力、そういう構図だ。
そこで浮かんでくるのは、「シン・ゴジラ」における(製作者の意図という意味ではなく、受け止められ方を含んだ大きな文脈において)「ゴジラ放射能・原爆」というのは、「ネタ」なのではないか、という疑問である。つまるところ、そこにあるのは「まともな国家が欲しい」という願望なのではないか。

それで何が悪いのか?日本はまともな国家ではないではないか。うむ、その通りだ。だが、我々は、たとえば、アメリカ民主党大会の中継を見て感動するのではないか。 あれは確かに素晴らしい。マイノリティが尊重され、機会の平等が言われる。失敗した人にも尊敬とサポートが送られる。 だが、その民主党政権は沖縄から一向に撤退しようとせず、イラクとアフガンの状況を改善するのに失敗し、アメリカ国内の格差の是正にすら失敗しているのではないか。

むろん、だから民主党はダメだと言っているのではない(共和党やトランプに比べれば何百倍もマシだ)。だが、だからと言って、 「アメリカ」の暴力性が消えるわけではない。つまるところ、国家というのはすべからく暴力的で一方的なのだ。 ならば、そんなものは否定されるべきか、といえば、そういうことでもないだろう。誰もやってみた人はいないが、国家なしでの近代社会というのは、かなり難しいのではないかと思う。 とはいえ、「良い国家であればすべては解決する」かというと、そうでもないだろう。一方的で暴力的なものが矛盾をはらまないはずはない。

このような矛盾の中に僕は存在せざるを得ない。許されるのは、せいぜい、一方において統治の暴力に加担しつつ、他方においてその被害を何とか小さくしようとする、という程度のことだ。このとき、何か魔法のような解決策を求めることには、僕は違和感がある。