『鬼滅の刃』考【ネタばれあり】

随分前に書こうとして準備していたのだけど、しっかりやろうとすると永遠に無理だと思うので、軽く骨子だけ『鬼滅の刃』について書きます。

 

鬼滅の刃』は見た目より単純なところと、見た目より複雑なところを含む、意外と難しい作品だ。しかし、そのメッセージは魅力的で、受け取ろうとすればちゃんと受け取れる。大ヒットしたのは、単に映像的迫力に富んでいたからでも、子どもに受ける表現だったからだけでもない(そういう要素はもちろん含まれているが、それだけではない)。漫画的、映像的にどうであるか、という話はたくさんあるので、ここでは作品のモチーフの話をしたい。ネタバレは最小限にするつもりだが、おそらく全体のストーリーの行方は読み取れてしまうと思う。そういうことも知りたくない、という方は、ここで読むのをやめることをお勧めする。

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さて、
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鬼滅の刃』のコミックの後半の巻に、キャラクターの一人が経文を唱えるシーンが出てくる。
普通、そういうところで引用されるのは般若心経だ。ところが、この作品では阿弥陀経が引用される。ただの偶然か、たまたま作者の手元にあったのがそれだったかのか、とも思うが、丁寧に見ていくと作者が「あとがき」的なところに報恩という言葉を使っていたりして、この作品には妙に浄土教系(浄土真宗および浄土宗)っぽいニュアンスがあちこちにある。
じゃあ、これは宗教的なマンガなのか、というとそういうことはない。作品にも、およそ浄土教にそぐわない神秘信仰っぽいところがいくつも出てくる。だけど、ここで個人がその努力によって成仏できるという世界観の般若心経ではなく、全ての人は等しく無力であり、菩薩に救済されるほかないという世界観の阿弥陀経が持ち出されることには意図がある、と僕は思う。作者はこのモチーフが自分のテーマに合致しているからこそこれを使っている。
そのテーマとは、端的に言えば超越の否定だ。
鬼滅の刃における「鬼」はあきらかに吸血鬼をモチーフにしていて、そして西洋のモダンホラーにおける吸血鬼と同じく、人間のみを捕食する生物として食物連鎖において人間の上位にあるものとされ、進化樹において人間よりも進歩したものとして位置付けられている。それは食物連鎖や進化という概念の誤用なのだが、作者はとりあえずその観念を使う。
この作品で悪役として登場する上級の鬼たちは、何らかの形で人間が能力として捉えるものを拡張し、超人間的な存在に飛躍しようとする。それは、例えば身体能力であったり、外見の美しさであったり、美的センスであったり、エモーショナルな感受性であったり、洞察力であったり、論理的思考能力であったりする。
鬼殺隊はそうした超越志向に一つ一つ立ち向かう。その姿は、自力による成仏を否定して凡人であることを肯定する浄土教の教理と重なる。もちろん、その時に罠としてあるのは、主人公たち自身が超人的な能力を身に付けようとするという誘惑である。
作品の中で、それは鬼による誘惑として表れるし(最終巻に至るまで、そのモチーフは執拗に繰り返される)、また、読者が鬼殺隊の訓練を人知を超える境地への到達の試みとして捉えるという形でも出現しうる。
そのため、作者は繰り返して「これらの能力は単に限界まで引き出された普通人の能力でしかない」と表明し、またその限界への到達に代償が伴うという設定を強調する。
これらの表現は、もちろん「努力と友情と協力」という、少年誌的な価値観の表明でもある。しかしそれは同時に、無限の成長を求めようとする我々の社会への警告としても機能しうる。そして、この作品のモチーフは(多くの人がそう共感したように)新自由主義による勝者の称賛と際限のない努力の強要がはびこる社会において、無力で平凡であることの肯定になりうるのだ。
進化したから偉いのではない、人より抜きん出るから価値があるのではない。命は、いのちとして存在していること自体に既に価値がある。作品はそのメッセージを繰り返す。
もちろん、超人志向に対比されるものが集団性であり、自己犠牲であるという大変残念な結論もそこにはある。それはルサンチマンでもあれば誤った力への意思でもあり、容易に日本型ファシズムに回収されうる。その意味で、この作品に泣くことには警戒しなくてはならない。けれど、僕たちが感じている、そしてもっと大事にしなくてはならない、ある違和感の表明として、そして社会全体のそれへの共感として、『鬼滅の刃』は記憶される価値があるだろう。