ポストモダン的南京大虐殺研究

ブクマがすごいことになっていて、まあ、このままにしとけば格好もつくのだけど。ただ、単純なるポストモダン叩き路線、というのもに違和感はあって。なので、ピントが変にずれるかもしれないのけど、少しだけ、ポストモダンのための言い訳みたいなものを。これで悪評が立ったとしても、それはそれでいいや。

たとえば、下記のような言い方があって、それはそれでもっともな話だ、と僕は思う。

すると次に、この「罪」からハッキリした善悪あるいは道徳に戻りたい、という反動が生じますね。

今、「人権」というようなことを問題にしている人たちは、おそらくそう考え始めているのだと思います。

そうした議論は、いとも単純明快で、ハッキリとした方針も出てきますし、最小限明らかなことがあるということまでも提起できます。なぜなら、「人権」を守ることは善であり、それを侵すことは悪に決まっているからです。そうしますと、訳のわからない罪深さ、というか決定不可能性のようなものは否定されなければならない。むしろ、そういうものが「道徳」を脅かすものなのです。そして、そうした罪の意識あるいは「善悪の彼岸」をもたらした奴は誰か、ということになる。それこそが病気をもたらした奴だ、それをとり除いて健康になりましょう、ということになるわけです。


柄谷行人、「ファシズムの問題:ド・マン/ハイデガー西田幾多郎」『言語と悲劇』pp336-7

もちろん、露悪趣味に走ってはどうしようもない。だけど、余りにプレーンな正義には加担できない、という気持は僕も持っている。柄谷は間違ったことをは言っていない。じゃあ、どうするのか。というと、沈黙する。あるいは「知識人的」でない方法で貢献する。あるいは、ポストモダン的に「南京」を研究すればよいのではないか。

二項対立を超える視点というのは、単にそれを獲得するだけでは駄目で、実践に転じてこそ活きるし、活かせるのだと思う。なので、ちょっとアイデアを書いておく。ポストモダン的かつ生産的にこの問題とかかわる方法はある。ただし、これは念のために書いておくだけのことだが、僕はどれもやる気はない。それに要求されるリソースの持ち合わせがないのだ。ポストモダン的研究は普通の研究以上に時間も労力も掛かる。この点は誤解しないでほしいと思う。まあ、それも言い訳ではあるのだけど。

とりあえず、一応「このようなこともなしうる」というリスト。ポストモダンのための釈明。キーワードは現在性と政治性だ。


1. 否定派言説の脱構築

否定派の人たちは、陰謀を反復しないではいられないようだ。例えば、1930年代の中国国民党による陰謀と、60年代以降の共産党による陰謀、そして最近の反日教育の陰謀、といったように。
かつて、中国の陰謀によって大陸に出兵させられた日本は、国交正常化前後に陰謀によってやりもしなかった悪行の汚名を着せられ、今またサヨクアメリカを巻き込んだ陰謀によって追い詰められている、というわけだ。
だが、強迫的な反復とはそれ自体執着を示すものでしかない。中国に対する恐れと蔑視がないまぜになり、その抑圧から奇妙な議論が産まれるのではないか。
こういう問題意識から始めて、陰謀論の系譜を辿ることができる。昭和初期には大量の中国批判の言説が世に出たが、それとの類似点を探ってみるのも興味深いだろう。近代以降の日本人は、ずっと中国を意識し、恐れてきたのではないか。


2. 「大きな物語」としての南京大虐殺論の批判

否定派は南京大虐殺の存在を証明する「たった一つの決定的証拠」を求める。だが、史料からわかるのは「南京」が無数の小事件の集積であったことだ。
このような状況こそ、ポストモダン的関心が本来批判の対象としていたものだ。大文字の歴史を志向する姿勢を批判・否定し、小文字の歴史を重視する姿勢が本来のものである。ならば、否定肯定を問わず、「南京大虐殺」を「単一の事件」として構築しようとする人たちの営みのもとで圧殺されてきたものを問いかけるというのは良い考えだろう。
当事者の経験を戦前、戦中、戦後に渡って丹念に掘り起こし、そのサンプルとして「生きられた歴史」の記憶を提示するのだ。事件に横切られた彼/彼女の人生はどのようなものであったか。その傷はどう残ったか。繰り返される「再評価」の波は人々をどう翻弄したか。加害者にとってはどうだったか。そうした作業をアーカイブ的に続けることによって、事件像は初めて実感として理解されるだろう。
東は南京の記念館の貧弱さについて語ったが、それで全てが言いつくされるとは思えない。見聞きしなければならないことは、まだ沢山あるはずだ。


3. 南京大虐殺論争の脱構築

否定派が国益を言い、肯定派が政府見解を持ち出す時、参照されているのは国際社会という審級である。だが、彼らはそこに訴えて何を成し遂げるつもりなのか。明確な戦略があるようには見えない。否定派は「神州の元気を回復せん」という類だし、肯定派の議論も「よきアメリカの属国」というあたりに落ち着く。当事国である中国の話が全然出てこないのも奇妙だ。現状では、論争における外国は、単に「内部を照す視点」としての仮想された外部の記号であるに過ぎない。
だとすれば、そもそも南京大虐殺論争とは何なのか。否定派、肯定派は何を賭金とし、何を成し遂げようとしているのか。そして、現実には何が得られようとしているのか。
この問題に対して、言説空間と現実社会における論者の位置や行動から論争の構造をあきらかにすることで、接近が図れるはずである。我々の社会は今、どのような場所にいるのか。そして人々はどんな選択、岐路を巡って争うのか。それを知ることはとても重要な課題であるはずだ。


以上のような研究は、超越的な批判、第三の視点からの探求という意味で、とてもポストモダン的だと僕は思う。そして「過去に向きあう現在」としての歴史の研究という意味で、アクチュアルだし有意義でもあるだろう。