ポストモダン、ポストモダン…

よせばいいのに、ポストモダン系の人が南京大虐殺とかの歴史修正主義マターに知的相対主義で突撃して、案の定反発くらったのに定型的に逆ギレして、プチサイエンスウォーズみたいになっているという話。

(ひとつの典型として、ここhttp://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20081203/1228313553)


僕は自分でポストモダニストのつもりだけど、こういう話を見ると情けなくなる。そもそも歴史修正主義は知的相対主義の悪しき応用なのだから、そこに相対主義を持ち出して何かの解毒剤になるわけがないじゃないか。空気を読めよ。

もちろん、気持はわからないではないけれども、わざわざ食中毒の現場で刺身を食ってみせるようなもので、どんなに弁解しても揶揄的な意図が含まれていることは否定のしようがない。デリダにせよ、フーコーにせよ、彼らはそういう態度は取らなかったし、つねに明確な戦略性を持っていたと思う。愉快犯だと見られるようなことをしてどうするのだ。

確かに、知識人は死んだのかもしれないが、だからと言ってベタベタのフラットになって良いということにはならないと思う。僕らは、自分の知性を良きことのために使うべきだ。そういう基本を見失ってはなるまい。

もちろん、「何が良きことなのか」というこれまた相対主義的な問いがありえる。単一の価値はないのだから、「良きこと」も、それを追求することもありえない、と。

しかし、それこそ情けない。そもそも、ポストモダンというのは、「人にとって良いことが近代主義のなかに見付からない」という話からスタートしたのではないのか。資本主義の中にはもちろん、共産主義の中にも、実存主義の中にもそれはなかった。だから、そういったものを戦略的に引っくり返して、その先に見えてくるものを彼らは見ようとしたのではないのか。

通俗的な正義を疑うというのなら、それもよかろう。だが、そんな作業はベッドの中で一人で済ませてもらいたい。公衆の面前に立つなら、「自分の正義」を堂々と掲げるべきだ。あるいは、その代替物を提示すべきだ。何も信じられぬのなら、何も語る必要はない。全てを実感で語るのなら、実感のあることだけに話題を限定すればよい。だが、思想家として世に立つのなら…。「無知の知」なら、何千年も前にソクラテスが既に言っている。いや、ソクラテスもそこに留まりはしなかったのに。

フーコー生の哲学にせよ、デリダ差延にせよ、ドゥルーズの強度にせよ、そもそも全てを相対化して事足りるなら、そんなしち面倒くさい概念など必要はなかったのだ。確かなものが何もない中で、確かなものを見いだすにはどうすればよいのか、全ての正義が力の相対主義に還元される中で、なお正義を実現するにはどうするのか。彼らが考えていたのは、そういうことであったはずだ。

その困難な道にコミットすることがないのなら、知的相対主義など、犬にでもくれてやるがよいのだ。いや、犬は記号を持ちはしないのだが。