「絶対的真実はない」について

僕が愛読しているブログには理系の人のものが多いのだけど、この人もそうなのかな?と思う。
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20081207/p1

ここでは、「絶対的真実」というのは、無根拠、無前提に正しい、という意味で使われているみたいだ。だから「絶対正しい」とか言わないで、ちゃんと説明して説得してよ、というようなニュアンスがあるような気がするのだけど、それはちょっと違うかな、と。

文系的な発想では、自分たちをプレーヤーとして、受け手でもあるかもしれないが、主には送り手であるものとして意識していると思う。そのことをベースに、少し。

物事の認識についてはその主体の数と同じくらいの多様な可能性があり、そのどれが優越していると確定的に言うことはできない。いわんや、その意味づけにおいておや。

というのが、思想や哲学がここ数百年来考え続けていることであり、「絶対的真実はない」ということの意味なのだと思う(ここで、「認識や意味づけの結果として得られること」を真実と呼び、「認識や意味づけの前にあるはずの対象そのもの」を事実と呼ぶ、というのが僕の理解だ。もちろん、事実は真実を通じてしか認識されず、かつその真実に絶対はないので、事実についても「あるらしい」というのが到達しうる共通理解の最高点になる)。

なので、「絶対的真実はない」ということ自体は意味のある主張にはなりにくい。なぜならそれは単なる前提であり、我々はその世界で生きなければならないからだ。根拠がないからと言って決断しなくてよいことにならない。

真実の絶対性を否定すると、当然のことながら真理の間での闘争が闘争が生じうることになる。それは些細な食い違いかもしれないし、深刻な対立かもしれない。また、平和的な手段によって妥協点に到達できればそれが最善であることに疑いの余地はないが、重要な問題はそこにはない。問題は、我々がそれに対して取るべき立場性のことなのだ。僕の考えでは、取りうる立場には以下の三つがあると思う。


1. 自分では関与せず、議論はより大きな関心を抱いている人たちに任せておく(より大きな関心は、その人が属している文化、社会、宗教、思想のシステムのあり方や、経済的、ライフコース的な利害関係によって産みだされるだろう)。ただし、その議論の結果として自分に降りかかる可能性のある、一切の犠牲や損失は甘受する覚悟を決めておく。

2.いずれかの時点で、議論のどれかの陣営に加担する。ただし、自分の議論には絶対的な根拠はなく、自らの文化的、社会的、宗教的、思想的関心や、経済的、ライフコース的な利害関係だけに基いていることは自覚しておく。

3.どの議論にも加担せず、設定されている対立図式からは盲点になっている真理や、双方のいずれによっても救済されない利害の存在を指摘し、そのために活動する。必要があれば新たな思考体系を開発する。ただし、それが真理への貢献などではないことを常に自覚しておく。


真の意味でポストモダン的だ、と言えるのは、僕は3.の立場なのだと思う。相対性を認識し、かつその認識に殉じようという姿勢である。もちろん、平たく言えば「屁理屈をこねて主要陣営の全てから憎まれる権利を得るために大汗をかいている」という状態であって、ご苦労さん、と言われるほかない。

不関与か、うしろめたさか、虚しさか。僕らにはその三つしかない。「絶対的真実はない」というのは、そういう意味を含んだ厳しい思想的表明なのだと、僕は思っている。