村上春樹受賞演説のオリジナルがみつからない

とりあえず、熱。出すぎやろ。

というわけで、昨日から寝込んでしまっていて、何も思うようにならない。なので速報だけ。

受賞演説については、エルサレム・ポストの記事が一番詳しいとみなされているようで、ガーディアンの記事もそれに準拠している。

全体としてややマイルドながら政治性が出ていて、なかなかの名演説だ。冒頭のところ(「小説家、つまり職業的な嘘吐きとしてここに来ました。政治家も外交官も嘘をつきますが、小説家が違うのは大きな嘘をつけばつくほど褒められることです」「僕が嘘を言わない日は一年に何日もありませんが、今日はその日です」)はかなり受けがよかったらしく、記者も熱心に引用している。色々考えたが、何も言わないより言うことを選んだ、というユーモアを込めた展開。そして壁の話。高い壁にぶつかる卵という、読者にはおなじみのフレーズ。壁が非道なことを行なわせる、壁に支配させてはならない、という政治的な含みを持ったメッセージ、最後に読者へのメッセージ。

政治性に驚いた、という人もいるみたいだが、前にも書いたように、これくらいのことは普通である。


ただ、実際に彼が話していたことが何であるのかは実は良くわからない。これはきちんと確認しておくべきことだと思う。

たとえば、共同通信の配信記事によれば(ここでは中国新聞の記事を利用させてもらう)。によれば、演説はこう要約されるようなものだったらしい。

一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。

 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか

 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。

 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる

 一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

一見してさきの記事から受ける印象とはかなり違う。具体的には、斜体にした部分がエルサレムポストの引用にはない。そして、これをどう見るかは非常に難しい。

たとえば、最初の一節は、エルサレルポストの記事では、

"When I was asked to accept this award," he said, "I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?

"I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.

"So here is what I have come to say."

(「この賞を受けるように求められたとき、私はここに来ないように注意されました。ガザでの戦いのためです」と彼は語った。「私は自問しました。イスラエルを訪れるのはふさわしいことなのだろうか?どちらか一方の味方をすることにならないだろうか?と」
「色々考えた末に、来ることにしました。多くの小説家がそうであるように、私も言われたのと逆のことをしてしまうのです。小説家とは、目で見て、手で触れたこと以外は信じないものなのです。私は見るとを選びました。黙っているより、話すとを選択したのです」
「では、言いたいことを言います」)

となっている。流れとしては自然である(訳は超訳なのでごめん)。なので、非武装市民云々が原文に含まれていたかどうかは確信がない。あるいは、共同通信の記者が「解説」的に加えたのかもしれない。現地取材をしているらしい朝日新聞の記事にもこういう発言の報告はない。ただし、毎日新聞の記事では「ガザ攻撃について「1000人以上が死亡し、その多くは非武装の子供やお年寄りだった」と言及し」たとされていて、事態はなにやらカフカ的である。


一方、「壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか」というくだり。やっぱりエルサレムポストにはないのだが、そのあたりを注意深く見る。

"If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

"Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system" which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

原文のまま引用したのだが、ふたつのセクションにわかれている。そして、「私は卵の側に立ちます」という文と「なぜなら、私たちはみな卵だからです」という文の間に、件の台詞が入ることは可能なように見える。ここでは、英文の側に編集があったのかもしれない。
ちなみに、歴史が決める云々はあきらかに共同通信の創作だと思う。「どんなに壁が正しく、どれどほど卵が間違っていようとも」といういかにも村上春樹らしい表現は政治的に不健全だと判断されたのだろう。

3番目、白リン弾以下のセクション。エルサレム・ポストの該当部分はこうだ。

"Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system" which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

"which forces us to do" で始まるシステムの説明の部分はクォテーションマークの外側にあるので、記者による説明だと思う*1。そう考えるなら、原文ではここによりヴィヴィッドな描写があった可能性は充分だといえる。エルサレム・ポストは、彼らにとって都合が悪い部分を抹消したのかもしれない。

つぎ。「制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる」という部分は、朝日新聞にある「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」という部分と共通している。また、JAPAN TODAYの記事にある

‘‘sometimes takes on a life of its own and it begins to kill us and cause us to kill others coldly, efficiently and systematically.’’

とも共通だ。なので、エルサレム・ポストが抹殺している可能性があるように思う。ただし、はっきりしたことはわからない。また、どの部分に入るのかもよくわからない。

また、共同通信の最後の部分については、あるのかないのか見当もつかない。エルサレム・ポストでは該当箇所は

"We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system."

(壁に立ち向うことに、希望があるわけではありません。それははあまりにも高く、暗く、冷いのです。それでも壁と闘うことで、我々は魂を共に暖さ、強さへと繋がなければなりません。我々は、私たちをつくり出したシステムが私たちを支配するのを許してはなりません。システムをつくったのは我々にほかならないなのですから。)

となっていて、「生きた精神」の部分が入り込む余地はないように見える。ただし、JAPAN TODAYのほうには、

‘‘Each of us possesses a tangible living soul. The system has no such thing. We must not allow the system to exploit us,’’

(私たちはみんな、はっきりとしていきいきした魂を保有しています。システムにはそのようなものはありません。我々はシステムが我々を食い物にするのを許してはなりません)

という引用があって、共同通信の要約を補強する。表現にはやや違和感があるものの、これがどこかほかの所にあっても不思議はない*2

要するに、良くわからないのだ。今の段階では、さまざまな政治的、社会的立場によって内容が多面的に伝えられている、というのが言えることなのではないかと思う。

これはちょっとストレスである。何しろ、作家の表現というのは、内容にせよ表現にせよ、かなり練られたもので、多面的な読みを容認するようになっているに違いないから、原文を見ないと何とも良いようがない。粗筋や感想文だけで小説を語れというようなものだ。どうしようもない。どこかが全文を出してくれないかな、と思うのだが、「作品」としての扱いを考えると、難しいのかもしれないな…。




【追記】この記事を書いてから、エルサレム・ポストの引用部分を紹介しているブログがあることを知った。http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/26ca7359e6d2d15ba74bcdf9989bee56
非常に有名なブログなので、その記事にもとづいた翻訳もなされている(そのひとつがこれhttp://maturiyaitto.blog90.fc2.com/blog-entry-139.html。それからこれもhttp://anond.hatelabo.jp/20090217141115)。どれも労作だとは思うのだけど、かなりの確率でダイジェストだと思われる、ということははっきりさせておいたほうがよいと思う。まあ、もとの記事には明記されているのだけど、話が伝わっていくうちに混乱する可能性もあるので。

【追記2】オリジナル版が出た。次の記事で速報する。

*1:追記:本文末に書いた翻訳の試みは、すべてこれを演説の一部として扱っている。どちらが正しいのかは何とも言えない。

*2:もっとも、かなり違和感があるので「引用と称した要約」である可能性も低くはない。