朝鮮人虐殺と山崎今朝弥

「実に日本人という人種はドコの成り下がりか知らないが、実に馬鹿で臆病で人でなしで、爪のアカほどの大和魂もない呆れた奴だと思いました」。 
これは明治から昭和にかけて活動した弁護士、山崎今朝弥が関東大震災朝鮮人虐殺について書いた文章の一部だ。山崎は大杉栄の弁護士にして友人で、布施辰治とともに多くの社会主義運動家の弁護もしている(金子文子と朴烈の弁護にも加わっている)。
山崎はまた、大変な悪戯者でもあった。権威、権力というものに違和感があったらしく、機会があればふざけずにいられなかったようだ。若い頃、信州で開業していた時には、営業広告に「弁護士大安売」というタイトルをつけ、「山崎博士法務局」を名乗っていた。
もちろん、彼の事務所は民間の機関で、学位は法学士である。「これはヒロシと読んでただの通称だ」「民間機関が『局』と名乗っていけないという理由はない」というのが彼の言い分だったらしい。
また、後に山崎は「平民大学」という法律講義のシリーズをやっているのだが(安価に法知識が得られるので人気があったらしい)その講演会が警察の手によって中止させられた時、「警察署長に『この野郎』と呼ばれ、名誉を棄損された」と言って正式に告発したりもしている。諧謔を反体制に利用しているのか、ふざけすぎて反体制になっているのか、ちょっとよくわからないところがある。善意に解釈するならば、権力があまりにも理不尽で、馬鹿馬鹿しすぎて真剣にやる気になれなかったのかもしれない。
が、その彼が全く冗談抜きで真剣に激怒していたことがいくつかあり、その一つが関東大震災朝鮮人虐殺だ。事件の全体像について、彼はいつもの調子でこのように述べる(なお、この文章は関東大震災の3か月後に書かれている)。「…大杉事件でも亀戸事件でも、自警団事件でも朝鮮人事件でも、支那人事件でも日本人事件でも、直接の下手人はことごとく個人としての暴漢凶徒に相違ないが、深くその由って来る処に遡れば、真の責任者は皆地震であり火事である。伝令使であり無線電話である。内訓告諭であり、廻章極秘大至急である。戒厳令でありその当局官憲である。その無智であり流言蜚語である。仮に地震がなく火事がなかったら、廻章も伝令も無線もなく、流言蜚語も起こらず戒厳令もなかった。戒厳令もなく軍隊も出なかったら、機関銃も大砲もなく、銃剣も鉄砲も出なかった。人気も荒まず、大和魂も騒がず、流言蜚語も各々その範を越えなかった」。
形の上では自然災害に原因があるようなことを言っているのだが、もちろん、彼が言いたいのはそのことではない。災害と暴徒を結ぶその中間項、軍と官憲をうまく批判しているのだ。
実は、山崎がさらに怒っているのは、事件の後でも「朝鮮人が火をつけている。井戸に毒を入れている」という類の流言飛語をなお信奉している連中のことだ。それについて彼はこう評論する。「あの風説を風説にあらず、事実なりと信ずる者もある。この信者の大部分は、あくまでその非を遂げんとする者(第一種)、保険金欲しさの者(第二種)、かく信ずることが国家のためなりと妄信する者(第三種)、であるが、稀には心底からこれを信ずるらしくいう者(第四種)もある」。
どうだろう、1923年にこういう人たちがいたようなのだが(山崎は実例も挙げている)、その輩は今も存在していないか。そして今も存在しているといえば、虐殺の存在を否定しようとする者たちだ。山崎は言う。「どうしてそれが隠蔽しおおせると考えるか。立て、座れ、ドンドン、ピリピリ、南葛で機関銃を見たものは千や二千の少数ではない。帰順した如く見せかけて帰国を許された、金・鄭・朴・李の人々も、百や二百ではあるまい。僕の処へ寄って直ぐ上海へ行った人でさえ四、五人はある。僕にはこれをその筋へ密告したり、突き出したりする大和魂はなかった。秘そう蓋をしようはまだ無智の類、馬鹿の類で、いささか恕すべき点がある。理が非でも、都合があるからどこまでも無理を通そう、悪いことなら総て朝鮮人に押し付けようとする愛国者、日本人、大和魂、武士道と来ては真に鼻持ちならない、天人共に容さざる大悪無上の話である」。
正直なところ、山崎にはいささかナショナリストのきらいがある。それは彼一流の諧謔で、危険な世論から身を守るためのポーズだという雰囲気もあるのだが、明治生まれの知識人らしく、それが本音だった部分もあるのだろう(のちに徳田球一から絶縁されたこととそれが無関係だったとは思われない)。しかし、それでも(あるいはそれだからこそ)、彼の評論は輝きを失わない。そして「どこの成り下がりか」と彼が罵倒した日本人の人でなしぶりは、関東大震災からもうじき100年になろうとする21世紀にも顕在である。

(文中、引用はすべて山崎今朝弥『地震憲兵・火事・巡査』(岩波文庫)より)。