知らないから勉強します、について

以下、単なる個人的偏見なので、「俺の意見は違う」という人にはあらかじめ謝っておく。すみません。

というわけで好きなことを書くが、またしても表題のようなことを書いて、歴史修正主義について語っている人がいるらしい。で、それについてこの記事「“単に『知らないから勉強します』”はなぜ『知的に極めて真っ当』ではないか」が書かれている。正直なところ、言いたいことはわからないではないが、ちょっと方向がズレているような気がする。

というか、単に「そういう奴は情けないから相手にしない」「出直してこい」で良いのではないかと。
いうまでもなく、無知であることが恥なのではないし、「勉強する」という宣言がまっとうでないのでもない。問題はそこにはない。もちろん、無知を装って偏見を垂れ流すのは恥ずべきことだが、ここで問題化すべきなのはそういうことでもないような気がする。

「知りません」「勉強している最中です」というのは、議論のなかでは言うべきことではないのだ。なぜなら、それは「殺してくれ」と言っているのと同じことだからである。なぜ論争のときにだけそういうことになるのか不思議なのだが、たとえばノールールの格闘技とか、そういう場面に出て「自分は打撃系知らないです」「その防御は今度勉強してきます」と言えるか。あるいはサッカーの大会で「うちのチームはゴール前でのハイボールのマークを知らないです」と言えるか。

もちろん言えない。そんなことを公言すれば、そこを徹底的に突かれてボコボコにされるだけのことだからだ。

僕が知っている学問的な議論というのも、やはりそういうものだ。大学院のゼミなどであるテーマについて議論する時、自分が知らない学者や学説が出てくるとドキっとしたものだし、逆に勝ちたいなら、人が見落しているジャンルについて勉強し、応用例込みで知識を披瀝するというが最も有益な戦略だったと思う。「キミ、これについてはあまり良く知らないんじゃないの?」と言われるのは最大の恥辱だったし、それをやられたら、あとは主導権を握られ、打たれっぱなしになることを覚悟せねばならない。

だからもちろん、それを防ぐための手練手管も使った。議論を自分の領域に誘導するというのも手だし、相手が予習内容を持ち出してきたときには、それを換骨奪胎して自説に有利なように利用したり、うまく「非本質的な豆知識」という領域に追いやったり…というようなことを色々やったものだ。

そうしたことをやり尽して、いよいよ万策尽き果てたときに「コーサン、コーサン」の意味で言うのが「よく知りません。勉強してきます」という台詞である。もちろん、その日は負けを認めなければならないし、次に会うときまでにはきちんと完璧にしておかなければならない。さもないとずっと風下に置かれつづけることになる*1


そういう意味でいうと、「よく知らないので云々」と言っている人というのは、リングに上った瞬間から腰が引け「自分素人なんで、あまり強く殴らないで下さいね。お願いしますよ」と言っているのと同じことなのだ。戦意なし。対戦相手としての評価に値せず。

言うまでもなく、よく知らないことは問題でも何でもない。我々は大半のことについて良く知らないのだ。世界は広く、我々のリソースは限られている。知識が必要になったらその都度勉強すればよい。当然のことだ。
ただ、その段階にある間は論争などをしてはいけない、ということなのだと僕は思う。人前で意見を言い、ひとかどの評価を受けたいのなら、血反吐を吐いてでも勉強すべきだ。あるいは上手く自分が勉強したエリアに議論を引きずり込むべきだ。その段階に逹していないときには発言をすべきではない。まして、不勉強であることを一つの立場として利用したりすべきではない*2
「知的に誠実」というのは、「知性によって真剣勝負をしますよ」という意味でなくてはならないのだと思う。そう考えないなら、議論の場に出るべきではない。

そういう相手とは議論をする必要はないし、あるいは実力をいかんなく発揮してボコボコにしてしまえばよい。素人と専門家の垣根を取り払うときに、知識のある側から歩み寄らなければならない、なんてことは一切ない。低いほうに平準化しても何の意味もない、と僕は思う。

*1:これは単に「ディベートというゲームの勝敗」として言っているのではない。言うまでもなく、自分はその考えが正しいと思うから主張するのであって、それを否定されることは存在を否定されることに近い。そういう水準で勝負していくときの問題である。

*2:【追記】ブクマを読んでいて、やっぱりきちんと書けていない部分があるな、と思ったので。「完璧でないなら出てくるな」と言っているのではない(そのように読めてしまう可能性は否定しない。僕の実力不足だ)。完璧でなくとも少しも構わないが、その結果として生じる不利益や不快感は甘受するのが筋だ、というのが言いたいことだ。もちろん、筋を通さない自由は否定しない。「意見を言ったり、評価されたりするための議論はしない」というのも、もちろん「あり」だ。冒頭にも書いたとおり、ここにあるのは全て僕の個人的意見にすぎない。あなたが何かを強制・強要される必要は一切ない