正義はなされたのだ、もちろん

異常な人は異常なことをすることによって異常だと判別される。殺人は異常なことだし、自分の行為をわけのわからない論理によって正当化することは異常なことだ。ならば、わけのわからない論理によって殺人行為を正当化する被告は異常であり、そのような人物に責任能力を認めるのはおかしいのではないか。

以上の論理に隙はなく、誤りはないように見える。ではこの死刑判決をどう理解するのかというと、遺族の応報感情とそれに対する同調が持ちだされるだろう。それを過剰だと捉えるか、当然だと考えるかが争点ということになる。

こういう展開を見ていて感じるのは、絶望的といってもいいような既視感だ。これについては既に一度書いた。なので、今度は典拠を引用しておく。

事実、すべての犯罪に共通な唯一の特性は、それらの犯罪が、後に吟味されるような若干の明白な例外は別として、各社会の諸成員によって普遍的に排斥されている行為でできているということである。今日この排斥が合理的であるかどうか、そしてもっぱら犯罪のうちに疾病または錯誤だけを認めることはもはや賢明なことでないかどうか、は問題とされるところである。だが、われわれはこういった議論に脱線すべきではない。…すなわち、「犯罪は、同一の社会型においてすべての健全な意識に見出される感情を傷つけるものである」というこは、論ずるまでもないことである。

 それ故に、われわれは上述の分析を要約して、「或る行動は、それが集合意識の強力な確定的な諸状態を冒涜するときに犯罪的である、」ということができるのである。


デュルケーム、『社会分業論』

犯罪の本質は社会(のルール)への挑戦だ、というところにあり、そしてそれだけだ。社会は違反に相応する強さで違反者に復讐し、排除しようとする。これを理性的に制御すべきだ、というのがデュルケームの主張としてたぶんあったことで、それが言われたのは19世紀の末ごろのことである。100年たっても、僕らは何の進歩もしていない。正義はなされた、正義を称えよ。