環境と分断

環境問題と市民の連帯

ついこの間であり、無限に遠い過去でもある今年の3月上旬まで、僕にとって環境問題は人々を連帯させる魔法のキーワードだった。もちろん、現実世界では様々な利害関係とか成長によって解決される問題とかがあってそう簡単にはいかないわけだが、大雑把に四捨五入すれば「環境問題は誰にも共通のリスクであり、それへの対処は共通の利益になる」と考えることができる、と僕は思っていたのだ。
それは、言い換えると「個々人が利己性を最大限に発揮することが連帯に集束する」という世界だった。誰もが健康でありたく、有害なものにさらされたり摂取したりしたくない。その度合いを挙げて行けば行くほど、より強く連帯ができる。個人の利益を抑圧する必要は一切ない、理想的な連帯の形である。
もちろん、これは僕の妄想にすぎない。だから、間違っている可能性は多いにあるのだけど、市民運動というものも、部分的にはこういう考えに基づいているところがあったのではないかと思う。色々な部分で違いはあるが、死活的な重要性のところでは皆が一致できて、究極的には全ての人が同じ方向に進むことができるはずだ、というアイデアである。

環境汚染と分断

だが今、僕は全く別の現実に直面しているように感じている。原発事故以来、環境汚染は止めようもないままに広がり、僕らは「汚染中」の世界に住むことになってしまった。もちろん、放射性物質による汚染の程度には色々な見解がある。しかし、それがある程度以上の広がりを持つことは確実であり、長期的影響については充分な観察データがない以上、対策が終わった後も不安を持ち続ける人が残ることは疑いがない。その意味でも、僕らは「汚染された世界」に住むことになるという予感がはっきりとある*1。そして、その世界では利己性の発揮は人々を分断させるのだ。
既にそういう傾向は出始めている気がするのだが、「危険なものを排除したい」という環境運動のロジックは、この場合は汚染された(かもしれない)地域の物や人々を遠ざけようという行動につながるように思われる。それは、より容認されやすいものとしてはその土地で取れた作物を買わないということだし、はっきりと批判されるものとしてはその地域の人々を差別的に締め出すということになる。これは外国に住んでいる人が日本の諸々に対して行っていることもあるし、日本に住んでいる人がより原発に近い地域に対して行っていることもある。しかし、程度や場所は違っても、行われていることは本質的には同じだと思う。それは、「より健康でいたい」という論理の表れなのだ。

分断への対処

言うまでもなく、それは悲しいことだ。かつて人々を近付けるはずだったロジックがその逆のほうに作用するのを見るのは、簡単に耐えられるようなことではない。だから、防衛的な論理が組み立てられる(というか、僕の場合はそうなった)。僕の印象では、この状況への対処法は三つくらいあると思う。一つめは、汚染そのものを否定することである。主に物理的・医学的な根拠を探して、長期的な影響が極めて少ないことを強調する。これは問題が消えて比較的短期間に元の世界が復活することを期待する論理である。二つめは、政府の責任を強調することだ。政府の誤りを指摘し、補償と原状回復を要求する。事故の本質的原因が政府の方針にあることは明白なので、最も論理的に無理のない立場だ。三つめは、汚染を受容してしまうことだ。被害があることを認め、それでも影響を受けた地域の物や人と以前と同じように付き合うことを宣言する。健康リスクは大きくなるが、連帯にはヒビが入らない。
以上は全く僕の個人的印象だし、見落としている立場だっていくつもあるに違いないのだが、今のところはこれくらいしか思いつかない。そして、僕は個人的には、この三番目のものが、今後の日本社会の空気になっていくのではないかと思う。というのは、これが一番無理がないからだ。長期的な影響に関する不確実性が付きまとうので、汚染を完全に否定することはおそらく無理だ。では土壌までを含めた完璧な除去が可能かと言うと、技術的困難は克服できても、完全にリスクをゼロにするのは無理だろう。どこかに不安は残る。はっきりとした解決がないまま問題はいつまでも長引き、ならば、受容してゆくしかないと考えられるのではないかと思うのだ。人は何にでも慣れるものだし、長期的なリスクは、それが長期的であるだけに無視しやすい。人々はいつか「ある程度のリスク」共存し、時折の悲劇に涙するだけのことになるのではないか、そんな気がする。

僕らの悲惨な世界

ひとつの問題は、この3番目の対処法の論理が、ナショナリズムととてもよく似ていることである。少なくとも、僕らのような、日本に暮らす者にとってはそうだ。事故現場からできるだけ離れることが合理的なのにそうしないのは、日本に愛着があったり、日本文化や日本社会から離れては生きることが困難だからだし、放射能汚染のある(かもしれない)土地に暮らす人は、同じ人間であるのと同時に、同胞として意識しやすい人々だ。かつての環境問題がそうであったような、地域やナショナリティを超えた連帯の原理が、ここには見出されにくい。
克服の可能性の一つは、人類としての連帯に話を持って行くことだ。誰もが同じリスクを負ってしまった、というふうに考えれば、新たな連帯の方向はできる。とはいえ、それは決して明るい世界像ではない。
一つの方向に環境リスクの差やナショナリズムによる分断、他の方向に「死の影」のもとでの連帯という、悲惨な可能性の光に照らされた世界に僕らはいる。今の時点では、そんなふうに思われてならない。

*1:いうまでもなく、今予想されているよりもはるかに大きな影響が残る可能性もある。ただ、ここでは汚染の程度については考えないことにする。仮に最も「良い」シナリオを考えた場合でも、この話は成り立つ。