排外主義への対抗について

3月31日に、鶴橋での排外主義デモのカウンターに行った。

もちろん、僕は大したことはなにもしていない。こういう行動では人数が多いことが大切だと思うのでその一翼を担ったという気持ちはあるけど、別に人を誘っていったわけでも、宣伝をしたわけでもない。だから、行動そのものについて語る気はない。

ただ、やっぱり動いているうちに色々と考えたことはあって、それはツイッターで書いたのだけど、ちょっとまとめておこう。

発端は、こんな感じのことだった。

色々な人と話をした中で印象に残ったのは、在日コリアンの方が「韓国は反日じゃないですよ!」と強調されていたこと。そういう気を遣わせてしまうこと自体が、とても申し訳ない気がした。
話が一段落したところで、そこにいた日本人5、6人が異口同音に口にしたのは「ご迷惑おかけしております」だった。もちろん、軽い冗談としてのことだけど、意外と本音でもあったと思う。排外主義は僕らの社会が産み出してしまったものだ。だから、僕らが食い止めないといけない。


そこから、考え始めた。


こういうシチュエーションだと、どうしても日/韓という二項対立図式が強く意識されてしまう。それでは何かまずい。だけど、単純にまずいよ、でいいんだろうか。「我々は、この社会で起きていることに責任がある」という時に、その我々とは誰なのか。そして、責任を取るとはどういうことか。

それが「我々日本人」のことでないのははっきりしている。そんなことを言ってしまったら「責任をひきうけるのだから、ここは日本人の国だ」ということになり、つまるところ排外主義の人たちとおなじことなってしまう。けれど他方で、「日本人である我々」と「彼ら在日コリアン」の共同の責任、と考えてもそれはそれでまずい。そこには、「差別される側にも原因がある」というような話に発展していく余地があるからだ。言うまでもなくこれもまた排外主義の論理であり、「お互いに幸せになるためにあなた達は故国に帰ったほうが良い」という彼らの良く使う主張につながる*1

つまり、この話は、一方で「日本人としての誇り」のような話に、他方で「在日社会にも問題が」という話に繋がっていく危険を含んでいる。差別を克服しようとしたら、そこにも差別があるのだ。

だが、「それなら無責任の方向で」というわけにもいくまい。排外主義と対抗するというのに、「あまりそれはいい感じじゃないから」ではいかにも頼りない。まあ、それでいいと言えば良いようなものだが、気にする人は気にするだろう。それに法律や警察の力を借りるのかどうかという問題もある。では、どんな理屈がありえるのか。

1.社会の維持

社会が成立しているとき、そこには必ず「人と人が共存していくためのルール」が存在する。その一つが法律だが、それだけにとどまるわけではない。習慣とかマナーとか、道徳というようなものもある*2。我々の社会は、人々がそれらを守ることによって、というか、より正確には人々が「他の人々がそれらを守る」と信じることによって、成立している。これらはどんな社会にも(その社会が社会として存在しているなら)必ずあることだ。

そしてまた、どんな社会にも、必ず規範から逸れてしまう人がいる。そのとき「それはルール違反だ」と示す、というのが社会のなすべきことだ*3。さもなければ社会に対する人々の信頼が崩れ、そのことによって社会の秩序が崩壊してしまう。

排外主義へのカウンターを考える上でのヒントの一つがここにある。まさにこの「ルールの所在を確認する」という意味で「排外主義に立ち向かうことは我々の責任だ」といえるかもしれないからだ。それは国籍や思想による区別を、おそらく超越しうることだ。これまでに生きてきた社会を存続させるために、我々は排外主義に立ち向かい、「自分たちはこれを受け入れない」という意思表示をする必要がある。

しかし、そこには重大な保留がある。

「逸脱を制裁することで規範の存在を示す」という社会のはたらきは、「犯罪の機能」として社会学で知られる。なぜ犯罪の機能で、制裁の機能ではないのか。

実は、「逸脱の制裁」は規範によって維持される社会の存在そのものにとって不可欠のものでもある。なぜなら、制裁を通じて「我々は規範を共有している」ということを確認しなければ、人々の間に社会への帰属意識と信頼感を作り出すことができないからだ。つまり、社会は、社会として維持されるために犯罪を必要とするのだ。犯罪をおかす人がいなくなれば、社会は犯罪を作り出す。だから、みんなが品行方正になっても犯罪はなくならない。犯罪の基準が変わるだけだ。

以上のことを考えに入れて、しかし、それでも「社会規範などと言うものは無用だ」とはいえない。それは我々が人と共存するために不可欠のものだからだ。だが、規範がある限り犯罪もある。そして、その責任は必ずしも犯罪者の側にだけあるのではない*4

だから、逸脱の制裁は慎重でなければならない。もちろん、原理的に取り返しのつく制裁などというものはありえないから、慎重すぎては何もできなくなってしまい、それはそれでまずい。また、逸脱の性格によっては重度の制裁も必要だろう*5。だが、それでも、犯罪の原因を、その人の変更不可能な特徴に求めたり、ある属性を持つ人をまとめて「潜在的犯罪者」とみなすようなことには慎重であるべきだろう。

これは、もちろん、差別が禁止されるべき理由のひとつだ。だから、それによってまたあらたに「逸脱者」カテゴリーに入れられる人が創られてしまうことを必要悪として受け入れ、かつそれが非難される人への差別につながらないような配慮をするという前提条件を付けたうえでなら、(国籍とは無関係な)「市民」による社会運動として排外主義に対する否定を意思表示することはありえるし、というよりもむしろなすべきことだと言えるだろう。


以上のようにして、我々は協同して排外主義に立ち向かうべきだ、とはいえる。それは、我々の社会を可能な限り平等に保っておくための手段なのだ。とはいえ、そのような一般論、原則論では済まないような側面もまたある。

2.歴史

ザイトク的なるものの存在は確かに「日本国民」の問題であるという面もある。なぜなら、そこある排外主義は、一般的なショーヴィニズムの発露だけではなく、韓半島、中国、東南アジア…などの人々に対する日本人の蔑視(または優越感)ともかかわることだからだ。

「韓国人風情が…」というような(あるいはもっとひどい)表現は排外主義者の発言に本当によく聞かれる。韓国(や中国、その他のアジア諸国)は日本に比べて程度が低く、それなのに日本に反抗したり、日本を利用したり食い物にしたりするのが許せないというのだ。また、それに反対する人の間からも「中国や韓国のような(遅れた国の)真似をしてどうするのか」というような発言がされることもある。

こうした自民族中心主義は、もちろん、どんな民族にもみられることだ。だが、日本の場合、とりわけ明治後には、それが日本帝国の政策と結びついて昂進されてきた経緯がある*6

これまで引き継がれてきた日本の文化とか伝統とかを捨ててしまうのでなければ、僕らはこういう問題も引き受け、それを克服しなければならない。それはやはり、日本人の責任としてある。
それはまた、大日本帝国負の遺産に立ち向かい、不十分だったり逆行もあったとはいえ、なんとかそれを償い、かつそこからより良いものを作り出そうと苦闘してきた、戦後の日本国の歴史の正統な後継路線でもあるはずだ。

そしてまたそれは、日本人と、日本に住む外国人が共に作ってきたものでもある。これからなすべきことへのヒントは、そのあたりに潜んでいるはずだ。

*1:もちろん、現実問題としてそんなことは全く不可能だ。ある人の暮らしを突然奪うということの理不尽さはいうまでもなく。

*2:社会学ではこのようなものを「社会規範」と呼んでいる。法律はそれらの中の一つのタイプだ。

*3:このような、「規範からの逸脱に対する否定的な反応」を「(社会的)制裁」と呼ぶ。制裁には非難から刑罰まで、様々な種類と強さのものがある。

*4:このあたりの理屈は、社会学の開祖のひとりであるデュルケームのアイデアに拠っている

*5:損害の回復か賠償が必要であるのはいうまでもない。

*6:明治政府が目標として西欧諸国に対する蔑視が少ないのは多分そのためだ。もっとも、幕末にも征韓論があるので、何もかも明治後のせいにすることはできないとも思う