やっぱり今のポルノは問題があると思う

昨日から会田誠の作品展への抗議について考えている。主に表現の自由という観点からあれこれ書いているのだが、それだけでよいのか、という問題は残る。

確認しておくと、僕は表現は基本的に自由であると考えていて、それが大規模に流通するような場合に、公共性に基づく最低限の規制が必要になる、と考えている。つまり、今回のことに関しては「ポルノとして売っているのではないから、ポルノに似ているとか、芸術としての価値がないといったような理由によって規制するのはおかしい」というのが言いたいことだ。

しかし、これでは議論の水準を切り替えただけで、本当の意味で問題に答えたことにはならない。そもそも会田の作品が問題になったのは、「それがポルノに似ている」からだし、会田が批判的なアイコンとして作品を機能させられるもの「それがポルノに似たものになる」からだ。たとえば、ウォホールの「キャンベルスープ」を缶詰の大量流通と切り離して理解できないように、今回の作品展も我々の社会におけるポルノや性の問題と切り離しては理解できない。もちろん、これを論じることは抗議をした人たちの(今一つ問題のある)ストーリーに乗っかることだ、という言い方はありえるし、逆に、会田誠の(あまり洗練されているとはいえない)問題提起に同調してしまうことだ、という批判もありえる。でも、まあ、それでもいいと僕は思う。これは、やっぱり重大な問題なんだ。



さて、会田の作品展をめぐる論争で本当に問題になっているのは、「我々の社会にポルノが氾濫していることはいいのか?」「我々の社会におけるポルノは嗜虐性に偏しているが、それでいいのか?」ということだ。それが美術館にまで進出することに抗議するにせよ、あえてそれを模倣して何かを表現するにせよ、根底にあるのはそういうことである。

「そういうことに関しては、よい大人は議論をしない」というのも一つの見識である。「セックスは寝室にとどめておけ」というわけだ。これはポルノの規制やゾーニングにもつながる話で、実際問題として「そう考えるほかはない」というようなことでもあるだろう。しかし、社会批評としてはそうではないだろう。ポルノを社会の暗部に閉じ込めておくことは、問題を何も解決しない。

こういう面に関しては、これまたしばしば現れる「男はそれを我慢できない」というタイプの議論もまた同じであるように思える。それらは本質論に議論を回収し、またホモソーシャル的に批判を封印する。「お前だって好きなんじゃん。一人だけいい子になろうとするなよ」ということだ。だが、法的な責任を追及するならともかく、社会問題として考えるなら、それでは何を言ったことにもならない。ある文化のなかで育った個人が、そこにある記号体系を内面化するのはむしろ自然なことだ。考えなければならないのは、「では、それは必然なのか」「なぜそうなっているのか」ということだろう。


封印すること、おおっぴらに言わないこと。それが一つのキーワードだ。それが嗜虐の問題につながる。現代の性表現には「むりやりが快楽につながる」ということが、幅広く浸透していると思う。この前BL(女性向けの男性同性愛フィクション)のイベントがあってその世界における性表現をいろいろと見たのだが、そこにも「感じさせる側」と「抵抗を無効にされて快楽を感じてしまう側」という区分があった。僕らにとってセックスとはまず抑圧であり、その克服から生じる快楽なのだ。

このことが表現を規制する制度の影響なのかどうかは、僕にはわからない。たとえばAKB48のプロモーションビデオはエロティックだが、それは性の記号を露骨にならない形で隠蔽しつつ、しかし隠蔽という行為そのものによって表象しているからだ(そこにも問題があるが、それは今は置く)。しかし、では、全く規制がないネット上のポルノがエロティックでないかというと、そういうことはない。そこでも、巧みに「抑圧」がセットされ、その抵抗感が情動によって克服されることが快楽につながるようにされている。

しかも、これは快楽だけの問題ではない。余りにも有名なフーコーの一節を引こう。「性が抑圧されているなら…性の抑圧について語ることだけで、それがラディカルな侵犯行為の様相を帯びることになる。…彼は法を揺るがし、多少とも未来の自由の先取りをするのだ。そこから、今日、性について語る時のあの荘重さが生じる」(『性の歴史:1』)。もちろん、これはアイロニカルに言われていることだ。彼が言っているのは抑圧を利用して行動する者への皮肉である。ここでなされているのは「性の抑圧への挑戦者は、自由の使者であり、また快楽の使者でもある」という考えに対する批判なのだ。ポルノは挑戦者ではなく共犯者なのではないか、抑圧と快楽は一体のものなのではないか、言われているのはそういうことだ。

一方で「性を寝室に閉じ込める」ということと、他方で「タブーを侵すことから快楽を得させる」こととは、実は同じ現象であるはずだ。この両者がフィードバックループを形成して強化し合うとき、「嗜虐性をベースとしたポルノグラフィが、ひっそりと、しかし大量に流通する」という現象が生まれる。そして、あらゆるものがそうであるように、ポルノにおける「タブーの侵犯」記号は収穫逓減の法則に抗するかのように、どんどん過剰な方向に増進するだろう。あらゆるタブーは、「それが何かを抑止するものである」という事実それのみによって、ポルノの記号として使用される。女性嫌悪インセスト、身体的侵襲、精神的虐待、そして性的記号としての身体器官そのもの。それはポルノグラフィのなかでどんどん激しさを増しながら使用される(会田の「極限の表現)がポルノと重複するのは、まさにこの点にいおいてである)。女子大生から女子高生へ、そして女子中学生から女子小学生へ、人妻ものから義母もの、そして実母ものへ。あるいは非生物学的なまでの「巨乳」もの…、そういったようなことだ。

もちろん、これらを陰謀論的にとらえてはなるまい。誰か(ポルノ業者、政治権力、資本制、男性社会…)が意図的にそうした状況を作ったわけではない。彼らはたまたまそうなっている状況を利用しているにすぎず、その行動がまた状況を強化するというフィードバックが生じているにすぎない。だが、だからといって問題がないわけでもないだろう。実際にポルノを消費している人たちに罪はないにしても(ある状況のなかで生きる人たちが、その状況に対して適応したり条件づけられたりしていることを誰が咎められよう?)、そしてまたポルノの制作や消費において、実在の個人が身体的・精神的に侵襲しているわけではないにしても、「理想的には、性はそのような形式に縛られていないほうが望ましい」というのは、かなりの程度確かなことだ。

あるいは、「ポルノグラフィの氾濫と嗜虐性の昂進」が「結婚はおろか性的関係の機会すら持たない男性の増加」と並行して進行していることも考えに入れておくべきかもしれない。そのようなことは、抑制のない暴力性へと結びつきかねないし、性交渉そのものを暴力的なものに変質させかねない。


我々は、だから、この問題について、何かをしなければならないだろう。どうすればよいのか?正直なところ、それはわからない。難しすぎる。単純な性の解放が答えになるという確信はもちろん持てない(というよりも、今の性の記号の体系は解放されたがらないのではないか?)。といって、抑止することは、単に構造を強化するだけだ。何とかして、性そのものを相対化するというようなことができるとよいと思うのだが…。