リスクってこと

某所に書いたものなんですが、ちょっと焼き直して再掲。いろいろ誤解があるような気がするので。

今回のインフルエンザとその対策について、かなりまずい認識が広がっているような気が僕はしている。それというのは「行政の対策は私が感染しないための支援であって、さまざまな施策がおこなわれている所は、近寄ると感染の可能性が増える危険地帯である」という考えだ。



そもそも可能性で判断することが妥当なのかという話である。可能性とは確率の話で、確率は無限回とは言わないまでも、多数回の反復がなされる事象に対してだけ適用可能な判断基準だ。ただ一人の人間である僕やあなたが、一度か二度どこかに行くことで感染するかどうか、というような問題に対して適用できるような枠組ではない。逆にいうと、確率用語で語られるリスクの問題、それに付随する政策、施策の数々は個人を対象としてはいない。

厚生労働大臣が何を言おうと、インフルエンザの問題の本質として考えられているのは、集団的なリスクなのだ。学校に生徒を集め、オフィスに観客を集めることで、近畿地方や日本全体で罹患する人がどれくらい増えるか。それによる損失と閉鎖による損失はどちらが大きいか。そういったようなことだ。誰が感染するのかは僕らにとっては重要だが、行政の判断には関係がない。

学校が休校になったのは、生徒集団内での感染を通じて社会全体に病気が広まるのを懸念してのことで、個々の生徒・学生を守るためではない。マスクの着用、手洗い、うがいの励行の呼び掛けも、国民集団へのデメリットを減らすためのものだ。
最近の社会政策は、格差対策から犯罪対策、ローン戦略、品質管理、保険商品の開発、災害対策、マーケティング、web広告まで、ほぼ全てが同種の発想によって占められている。集団的なメリットを重視し、確率的にリスク(時にはチャンス)の高いところを割り出し、そのリスクをコントロールする方法を考える。具体的に誰が幸せになり、誰がババを引くのかには関知しない。

なぜそういう発想を取るのかといえば、現代社会のような複雑かつ大規模なシステムに対しては、確率論的な考え方しかできないから、というのが答のひとつで、まあ妥当だ。たとえば今回でも、検疫システムによって国内にウィルスが侵入するのを防ぐことはできなかった。サーモグラフィーを導入し、問診票を配り、隔離を実施しても網の目を潜る存在をゼロにはできなかったのだ。そういう、「思わぬ偶然」を回避することはできない。ならば、できるのは確率で捉えて、それを0や100に近付けることだ。人類が発達させてきた知性のシステムでは、そういうふうに考えることしかできないのだ。

だから、インフルエンザ対策では、非常に危険でもめったに人が行かない場所(やらないこと)についてはノータッチだろうし、逆に危険は低くても多くの人が関与することには重点的な対策がおこなわれるだろう。さらにそこに、社会生活への影響への配慮というやつが絡むのだ。
そういう複雑な社会に生きている、ということは知っておいても損はないのじゃないか、そう思う。