または、我ら罪ある世代について

(僕は渋谷系とかは知らないけど、あの時代に20代だったものとして、90年代についてはそれなりの苦々しさはある。2016年11月に書いたテキストを発掘したので、転載。今も、こんなふうにごまかさないと書けない。)

あれは封印されているはずだった。ネオ東京の地下深く、絶対零度の秘密施設に、ってそんな話じゃない。いや、大友克洋という言葉に心当たりがなければ、ここは読み飛ばしてくれ。僕が言ってるのはナショナリズムのことだ。
 

あれはもう、すっかり忘れ去られて過去のものになり、覚えている者たちも警戒を怠っていないはずだった。だから、僕たちはそれを使って一勝負かける気になったのだ。もちろん、ひどく思い上がっていた。戦後復興、冷戦終結、バブル…。見るべきものは何も見えていなかった。影の部分を忘れて、なんでもできる気になっていたのだ。 

「あの時代」の話をしよう。90年代の前半のことだ。僕たちの悩みは大きな問題がないことだった。資本主義が勝利し、その余波を駆って社会民主主義が普及しつつあるように見えた。人々は都市で生活し、市場と国家を通じてあらゆる必要を満たした。実態はもちろんそうではなかったが、そういう風に見えていた。あるいは、近いうちにそうなると僕たちは思っていたのだ。完全雇用が実現し、すべての人に(むろんジェンダー格差を超えてだ。僕たちは20世紀生まれだが、何もフェミニズムを知らないわけじゃない)安定した職業人としての人生が保証されているように見えた。そして、新自由主義新保守主義が世界を覆いつつあった。 

びっくりした顔をしなくてもいい。新自由主義新保守主義は格差が拡大する社会じゃなくても発達するのだ。あれが50年代から存在するというフーコーの分析を読んだことがないのか?まあいい、要するにあれは資本制の爛熟と関係があるので、貧しさや格差からくる何かじゃない。とにかく、僕たちには人々の連帯が必要であることがわかっていた。分断による支配のもとで、資本主義の暴走が始まろうとしていたのだ。このままでは大変なことになるのは明らかだった。そうなったらどうなるか、いまさら説明する必要もないだろう。大企業と資本家に富が集中し、国家さえも超える資本の論理が社会を支配し、福祉国家は破壊され、格差がどんどん拡大する社会がくるのだ。 

それくらいのことは、少しものを考える力持った奴になら、誰でもわかることだった。もちろん、警告しても誰も聞かなかった。みんな、今の生活に満足していた。このまま続けていけば何もかもがよくなると思っていたし、まずくいっても制御できると思っていた。チェルノブイリははるか海の向こうのことだったし、阪神大震災はまだ何年も後のことだ。社会は全能感に酔っていたのだ。 

もちろん、それは左派だって同じだった。なんでもできる気でいた。でなければ、ナショナリズムを利用するなんていう話を思いつくはずはない。いや、それは少し酷な言い方かもしれない。ほかに使えそうなものはなにも目につかなかったのは確かなのだから。 

なんでも生産でき、なんでも制御でき、なんでも消費できる社会は、欠乏を知らない社会だ。そういう社会は動かせない。人は強い欲望によって動くもので、社会を揺り動かすような強い欲望は基本的なニーズの欠乏からくるからだ。もちろん、個人個人はいろいろな欲望を抱いていたが、それは社会的な力としてまとまる契機を欠いていた。その一方で「再帰化」という話があった。宮台のあれだ。あれはややこしい概念だが、今はその全部を追う必要はない。要は、なんでも選択可能になるということだ。住む場所やライフスタイル、職業や人生設計、アイデンティティや性的オリエンテーションまで、何もかもが自由に選べる。その一方で、選ぶことのできない何かについての希求も高まる。 

もちろん、僕たちの目に入っていなかったのはマイノリティだった。そのことに関しては、何をどう言われたって仕方がない。メインストリームからの離脱が自由にできると夢想する一方で、マジョリティの世界から差別されている人たちの運命や苦悩がまったく目に入っていなかったのだから。あのとき、それがわかっていたら…、いや、そんなことを言っても仕方がない。言い訳にしかならないし、そもそも、「それがわかっていた」としても、僕たちはおなじ間違いをしたに違いない。問題はフレームワークが間違っていたことで、ちょっとしたボタンの掛け違えなんかじゃない。まあ、ボタンの掛け違えというのもそれはそれで厄介なものなんだけど。 

ともかく、それで、コミュニティの話になる。アイデンティティの一部としてのコミュニティ、地域のつながりを通じての自己実現、そんなものをつくって、人を釣ろうとしていたのだ。それはバラバラの個として社会の寒風にさらされる人々に必要なものを差し出すことになるし、それへの希求の力によって社会を動かせるし、さらにはその連帯を通じて資本とも対抗できる。悪いことなんか何もないように見えた。 

もちろん、何も考えていなかったわけじゃない。ナショナリズムの危険性はそれなりにわかっていた。だから、話はそこから遠そうなところから始まった。たとえば、ITを通じたコミュニティ。あるいは、流動的な市民運動、そしてスポーツを通じた地域交流。安全な回路を通じてのアイデンティティの希求への誘導。要するに、インターネットと薬害エイズとJリーグだ。それを作ったというつもりはない。だけど、90年代の初頭にそういうものが出ていた時、飛びついたのは俺たちだった。プライベートな時間を割き、それを趣味にした。世間の人々も、いろいろな理由でこういう活動に入ってきた。人生のすべてを活動を中心に組み立てる人すら現れた。

 最初のうち、何もかもがうまくいった。ナショナリズムもコントロールできていた。Jリーグは地域を中心に発達し、ナショナルチームの活動はリーグ宣伝塔として機能した。サイモン・クーパー、あの世界で一番ナショナリズムとサッカーの関係について敏感で、アヤックスですら情け容赦のない批判の対象にした彼ですら、日本のサッカーシーンを見て「これは、週末のナショナリズム、罪のない無害なナショナリズムだ」と言ったくらいだ。だけど、結果からみればそれは間違いだった。 

たとえば、ネット文化は敵意を中心に結集するコミュニティを生み出した。その代表例が在特会であることは言うまでもない。薬害エイズ拉致問題を経て嫌韓流へと流れこみ、草の根の市民運動は新しい教科書を作る会や日本会議を生み出した。Jリーグ熱はいつしかワールドカップ至上主義に転化し、ニッポン、ニッポンの大合唱が社会を覆った。その背後にあったのは、根強いナショナリズムと社会の貧窮の急激な表面化だ。「世間の人々のいろいろな理由」はだんだんそういうところに収束した。格差と不満が急速に激化するなかで、僕たちが始めた火遊びは手の付けられない暴走に変わっていった。

ある世代が抱いた夢がこれほどひどく裏切られることがほかにあったのかどうか、僕は知らない。というか、他との比較はどうでもいい。問題は起こってしまったことにどう対処するかだ。間違いをどうにかして正さなくてはいけない。そして、僕らは未だにネットを通じたつながりによって問題に対処しようとしている。ツイッターでカウンター情報を流し、フェイスブックでイベントを作っている。性懲りのない阿呆であるという以前に、たぶん、ほかのやり方を知らないのだ。たぶん、この風潮を僕らは墓場まで持っていくのだろう。というか、それができればいいと思う。自分たちが生み出してしまった災厄を、自分たちとともに葬り去ることができるとしたら、たぶんそれは望みうる結果の中でも最善ということになるだろう。