2. 良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない

村上春樹と政治というとり合わせ。ずいぶん奇妙なものだと誰でも思う。けれど、僕にはその可能性があると思う。もちろん、それは集団の関係を直接操作するというようなタイプのものではない。正義を実現するものであるのかどうかすら疑わしい。だが、だからと言って政治的でありえないわけではない。
村上春樹に対する最も痛烈な批判者のひとりでもある柄谷行人が、中野重治について言ったことを引こう。

彼が反発しているのは、政治と文学を分けたり、才能と無能を分けたりするような思考である。そのようなわかりやすい二元性を拒否することが彼が志向する文学だったのである。転向時代において、芥川のいったことがふたたび表面化する。文学の「才能」では負けないといった自負が、転向文学者たちを支えたのだ。しかし、いわば、それは「道徳的に外れて」いる。文学をやめて政治をやるとか、政治をやめて文学をやるとかいった考えそのものが「まちがっている」。

柄谷行人、「中野重治と転向」『ヒューモアとしての唯物論講談社学術文庫、p199

柄谷がここで言っていることは書き手に関することだ。でも、僕は読み手にもそれを当て嵌められると思う。狭義の政治だけが政治ではない。僕らは誰でも、どんな形ででも、世界や社会のなりたちに関ることができる。
もちろん、それは何か他のものの否定ではない。国家や集団の動向に直接関与することも立派だし、表現技法に専念することもありえる。それを評価したいのではない。僕はただ、別様の考えかたもありえる、ということを示したいだけだ。


だが、その前に、そもそもなぜ村上春樹なのだろう。僕の場合は『ハングリー・ハート』だった。


村上春樹は流行作家として現われた。よほどの文学マニアを除いて、売れる前から彼を知っていたという人いないだろう。僕らは「売れている作家」として彼を見た。「W村上」「そんな彼女が愛するアイテム」。女子大生という空想上の記号が自己を差異化するために装備するとされた記号。その記号を消費するために男性が消費しなければならないグッズ。もちろん、単行本ではなく「トレンディ」な雑誌の書評欄のあらすじ紹介として。
誰もがそういうふうに読んだ。つまらない、ちゃらちゃらした小説。ロクに何も書かれていない文学ごっこ。そういう目で見た。

もちろん、僕もそうだった。というか、読みもしなかった。僕は19歳で、仕事をしながら夜学に通っていて、政治意識が強いつもりの青二才だった。読んでいたのはデュケームにフーコー、そしてソルジェニーツィンだ。『収容所列島』を繰り返し読み、たまに疲れると神林長平ギャビン・ライアルを読んだ。村上春樹との接点は一切ない。

それが、突然読むようになったのは、他にどうしようもなかったからだった。ある夏の日、たまたま泊りにいった親戚の家で、読むものがなくなってしまったのだ。『ダンス・ダンス・ダンス』が下巻だけ、その部屋の本棚にあった。長い夏の午後で、他にやることは何もない。上巻からだったら読まなかっただろう。文学に興味はなかったし、世界の変革にも、知の変革にもつながらないものを本気で読む気はまるでなかった。暇つぶしの村上春樹だ。適当に開いて、何ページか進むうちに、そのシーンにでくわした。

 ブルース・スプリングスティーンが『ハングリー・ハート』を歌った。良い歌だ。世界もまだ捨てたものではない。ディスク・ジョッキーもこれは良い歌だと言った。僕は軽く爪を噛み、空を眺めていた。例の頭蓋骨雲はまるで宿命のようにそこにあった。ハワイ、と僕は思った。世界の果てみたいだ。母親が娘と友達になりたいと思っている。娘は友達よりは母親を求めている。すれちがいだ。何処にも行けない。母親にはボーイフレンドがいる。戻る場所のない片腕の詩人だ。父親にもボーイフレンドがいる。ゲイの書生のフライデー。何処にもいけない。
 十分ほどあとで、ユキは僕の肩に顔をつけて泣き始めた。

ダンス・ダンス・ダンス 下』講談社版、p84

あからさまなホモフォビアと時代遅れの家族観にもかかわらず、僕を引きつけたのはシーン全体に漂う緊張感だった。しっかりした描写力とペーシングの上手さ。ここは基本的に対話のシーンなのだが(引用箇所の前と後ろに対話文がある)、村上春樹はそれを引き伸ばす。読者の心に何かを感じる暇を与えて、それから主題を出してくる。そうすることで場面が引き締まるし、下らない心理描写をしなくてよくなる。そしてもちろん、そこにはしっかりとした主張があった。何も考えていない小説ではない。もちろん、その時は技法のことも主題のことも、それほどはっきりとはわからなかった。ただ、ここにはなにかがある。それが響いてきた。
そして「ハングリー・ハート」だ。仕事からの帰り、学校に行く途中で何度も繰り返して聞いていた曲だった。"Lay down your money and you play your part, Everybody's got a hungry heart…(金を置いて役割を演じていても、誰もが満されない心を持っている)"。どうしようもない飢え、歯車のひとつではいたくないという足掻き。それが笑ってしまうくらい類型的な悩みであることもわかっていて、だから僕は再帰的に傷ついていたのだけど、ぽつりと置かれた台詞でそれが肯定された気がしたのだ。

次の週、僕は書店で『ダンス・ダンス・ダンス』を上下巻買った。文庫本でない本を買うのは久しぶりだったけど、どうしようもなかった。その次に読んだのは『パン屋再襲撃』だ。『蛍』、『中国行きのスロウ・ボート』、『1973年のピンボール』…。それが始まりだった。僕はゆっくりと、村上春樹の価値体系を理解していった。