日本のナショナリズムとか将来とか

偉そうなことを言うのは好きではないし、伝統だの社会のあり方だのを訳知り顔で語るのも嫌いだ。そこまでの実力も地位もない。けれど、一方で「日本の伝統」とか「日本人の感覚」とかをしたり顔で持ち出し、差別や排除を正当化しようとする人たちもいる。そういう人たちの言うことを黙って聞いているよりは、自分なりに言えることを言ってみようかと思ってこの記事を書いた。素人のやることだから間違いやツッコミどころは沢山あると思う。これをきっかけに、いろいろ考えて、発言していく人が増えてくれると嬉しい。


ベネディクト=アンダーソンは好きだしロマンだけど、やっぱり日本にそのまま適用するのは無理があるよな、と思う。まあ、アンダーソン自身も「ナショナリズムをすべて説明できる」と言っているわけではないけど、日本のナショナリズムを近代国家体制(=近代の国際関係)だけで理解するのは多分難しい。
明治維新はあきらかに世界的な国民国家制への移行への対応で、だから国際関係で理解できるのだが、そこで利用された資源はそれまでの社会にあったもので、近代に発明されたものではない。ホブズボームがヨーロッパの例で言ったように、そこにプロト=ネーションのようなものを想定する方が妥当だろう。まして、東アジアには古代以来、中央集権国家をもつ地域が二つも三つもあったのだから、日本がその影響を受けないと考える方が不自然である。

明治維新の時もそうだけど、中世にも古代律令国家の輪郭をベースになにがしかの境界性が意識されていて、そこに「日本」のようなイメージ(名前はともかく)がないとは思いがたい。それをどれだけの人が共有していたかは問題だが、我々が想像する以上に「知識人層」の広がりがあって、一般の人たちもいざ「世界像」を得ようとするときには、それに依拠していたのではないか、と僕は思う(中世は、日本書記や古事記のほかに、偽文書やら社寺縁起やらが溢れる社会でもあった)。

中世には地方に権力が分立し、各地に独立国が沢山あった…と考えるのはロマンティックなのだが、律令の分国制がずっと維持され、戦国大名ですら三河の統一だの、越前から越後に侵攻だのと言っていたことは忘れてはなるまい。官制も形式だけとはいえずっと踏襲されたし、一部を除いて独自の年号が使われるということもなかった。天皇制による時間と空間の支配は、濃淡の違いはあれ基本的な枠組みとしては維持され続けていたと言わざるを得ないと僕は思う。その意味で、古代律令国家の影響は後々までずっと続いたと言えるのではないか。

その律令国家は多分古代氏族社会が統一されてできたものだと思うのだけど、歴史に現れた時点では既に王権として確立されていて、現在の日本社会のマジョリティとなる人々の歴史の中に、天皇制の中央集権国家があったことはまちがいない。制度や神話、宗教などの大半は(いや、おそらく人そのものだって)朝鮮半島から渡ってきたことは間違いなく、したがってそれは「日本オリジナルの伝統」などでは全然ないと思うのだが、少なくとも政治的統一体があったことは否定できないだろう*1。こうしたものが様々な形で伝承され、記憶されて、「復古」という形で明治以降の天皇制国家の原像のひとつになったはずだ。


ところで、日本の近代的国民国家の源流は律令国家の記憶だけではない。明治初期の立ち上げの時に、ムラやマチなどの共同体と国家の強引な接合が行われたこともまた事実だ。たとえば、ムラの鎮守が国家神道の体系に組み込まれているし、「国民の登録」である戸籍の編成も人別帳のシステムを利用して行われている。国民の意識の中では、共同体が拡大したものが国家だったのではないか*2。ここには、もう一つ別の、国民国家日本の起源がある。

明治まで続いたムラは、おおむね中世に生まれた惣村が原型になっている。自治や自衛能力のある共同体だ。基本的には農民の共同体だが、もちろん、その内部には階層があり、多様な職業がある。被差別民や奴隷、承認、聖職者や武士も内包していたはずだ。領主の支配からも自由ではなく、公地公民制の記憶を通して中央集権への意識も持っている。交易や交流も戦争もしているし、単純な民衆の共同体ではない。でも、古代の社会からは確実に切れている、そういう存在が、室町時代の初期には生まれてきた。

もちろん、そののち、特に近世にはその力をかなり奪われ、武士とも切り離され、大規模経営が家族制の中農に均質化されて自治も弱まるのだが、強い絆を持った共同体としての性格はそのまま維持され、江戸の末期までムラは社会の重要な部分であり続けた*3。明治の国家はそれを統合したのだと思う。無数のムラの上に国家が乗ったのだ*4。ムラ人の側から見れば、近代には、共同体の一員であることが国家の一員であることとイコールであったろう。つまりここでは、生活の実感がナショナリズムと地続きになっているわけだ*5

天皇制の記憶とムラの伝統が、近代になって西洋の影響のもとで作られた国民国家の中核に組み込まれる。それは、後になれば「日本という国民国家は伝統的なものだ、というふうにも見えるだろう。もちろん、それは誤解だ。まず歴史があり、外的な要因によって動機を与えられた人々がそれを利用して新しい体制を組み立てるのだ。そして、こうした素材が、近代国家としての日本、国民としての日本人に影響を与えているはずだ。

まず、中央集権的であり、かつ氏族社会の変形として家族主義的でもある国家観がある。「天皇を中心にまとまるのが日本人だ」「みな、陛下の赤子だ」というわけだ。そしてもう一つは閉鎖的な共同体としての国家観だ。「我々の仲間でないものは日本人ではない」という感覚。つまり、中央集権的かつ排外的なナショナリズムだ。否定しても始まらない。日本人はそういうものを持っているのだ。問題は、それをどうするかだ。

このままでよいのか?良くないに決まっている。侵略と戦争と差別の近代史の教訓があり、高齢化と人口減少という課題もある。日本が排外主義や君主制の中央集権体制(帝国主義だ、つまり)に安住することは許されない。

ではどうするのか。日本の近代国家は歴史に散りばめられた要素を再編して組み上げられた。ならば、それをもう一度やるほかない。日本の社会、日本人の意識、国民の神話をどう組み変えるのか。 ナショナリズムや国際社会とどう向き合うのか。文化や歴史の違う人たちとどう共生するのか。今、僕たち日本人が直面している課題はそういうことだと思う。

*1:もちろん、「辺境」や「バウンダリー」は存在しただろう。また、中世の「日本」の範囲は「北は津軽外ヶ浜、西は喜界が島」と言われていて、蝦夷地や琉球は含まれない

*2:もちろん、すぐに国家への忠誠が確保されたわけではなく日清戦争あたりまでかかったし、人口の移動や都市化もあったのだが

*3:ここではあまり触れていないが、こうしたムラの誕生や変化の背後には生産関係の変化が当然あるはずである。大雑把にいえば、近世初期に日本は奴隷制からの離脱をかなり完了する。戦国期の惣村は、奴隷制大家族の連合とも言える面もあったことは銘記されるべきだろう。

*4:そしてもちろん、その後に共同体は巧みに無力化され、解体されるのだが

*5:もちろん、このとき「庶民」とは誰か、というのは問題である。ムラの知識層、富・中農層に最も強いナショナリズムが見られたことは想起されるべきだ