1月17日に

(数年前に書いたものを転載。阪神淡路大震災は、僕にとってはとても個人的な経験だった)

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兵庫から引っ越して住んでいたので、僕は、直接被害にあったわけではない。

朝、寝ているときにすごい揺れが襲ってきて、それでもテレビで速報をちょっと見て、また寝た。朝のニュースで、随分震度が大きいことを知る。それでも、まだ神戸の話だと思っていた。西宮の本家に電話が繋がらないのも輻輳だと思って、車で仕事に出た(そのころはまだ勤め人だったのだ)。

高速道路を走っている最中に、ものすごい余震が来た。これはただごとではないのかもしれない、と思ったのはその時だ。仕事の休憩時間に阪神高速とか、伊丹駅とかの映像を見て、家に帰ってから、西宮の家が全壊したことを知る。まだ携帯電話もなかったから、家とか、駅前のボックスとか、色々なところで電話をかけた。祖父が亡くなり、叔父一家は知り合いのところに避難していた。

現場に入ったのは、その翌々日、1月19日のことだ。電車は西宮北口までだった。線路の横を延々と歩いた。大正時代に祖父が建てた家は、完全にぺしゃんこになっていた。肩の高さに二階の屋根があった。祖父の遺体は近所の学校に安置されていた。霊安室に使われていた教室に入ると、死の、独特の匂いがした。

そういう時に必要以上に深刻にならない、というのがうちの一族のふうで、叔父一家も、手伝いにきた従兄弟たちも、結構陽気に振る舞っていた(あるいは被災地全体の雰囲気がそうだったかもしれない)。叔母は近所で助け出された老婦人が開口一番「誰がお婆ちゃんやの!」と言ったという話をした。叔父がカメラを掘り出してきて、親戚一同で記念撮影をした。あたりは壊れた屋根から出る土埃にまみれていた。風が強くて、猛烈に寒かった。僕らは思い出を頼りに瓦をどかし、土壁を分解して、少しでも物を取り出そうとした。もっとも、それは簡単なことではなかった。おじいちゃんはあまり片付けの得意な人ではなかったし、家は何十年分もの生活用品だけでなく、商売をしていた時の在庫品まであふれていて、そもそも足の踏み場もなかったからだ。なんとか、仏壇だけは見付け出した。箪笥があったあたりから、大きな宝石が出てきて、一同首をひねった。

「あの記念をやった時におじいちゃんがおばあちゃんに贈ったやつやないかな?」「あれかあ。おばあちゃん『もったいない』言うて仕舞い込んでたもんなあ。亡くなってからわからんようになってたんや」 「これ、ずっと開けられへんかった箪笥やろ。物が積んであって(笑い)」
「あの記念」って何のことなのかさっぱりわからない。でも何となくほっとできる。親戚独特の会話。そして笑い。


笑い。


そこは、僕らがずっと時間を積み上げてきた場所だった。暗かった客間。ガラス戸のついた縁側、正月に大人たちが麻雀をした座敷、改装してオレンジの傘の蛍光灯がついた台所、特別な時にしか使わなかった大きい方の玄関と洋間。古寂びた庭石があった日当たりの悪い庭。地震でぺしゃんこになっても、それは僕らの中にちゃんとあった。たかが地震なんかで、それが壊されるわけはなかったのだ。失なわれたものは失なわれたものだった。だけど、僕らはちゃんと生きていて、またやっていくのだ。笑って、そう思った。

翌日、知り合いの職人さんが重機を入れてくれて、片付けは急速に進んだ。祖父の葬儀は、千里山に移転していた菩提寺で取り行なわれた。お寺出入りの葬儀屋さんが、半日かけて西宮から吹田まで霊柩車を走らせてくれた。大阪だったので仏事に滞りはほとんどなかった。僕らは色々な意味で幸運だったのだ。

数ヶ月後、親戚一同が西宮市からの不思議な書類を手にした。負債の相続通知だった。滞納していた税金の請求だ。祖父は「何かうっとおしい」という理由で、何年も都市計画税を踏み倒していたのだ。合計すると、かなりの金額になった。宝石がその支払いに当てられたのかどうか、僕は寡聞にして知らない。