日本と韓国のナショナリティ(とローカリティ)

明美『サッカーからみる日韓のナショナリティとローカリティ』読了。清水市西帰浦市(済州)で、(少年)サッカーをめぐる様々な実践をフィールドワークしたもの。日本と韓国のナショナリズムの成立ちの違いについての結論が興味深い。

大胆かつ大幅に要約すると、日本のナショナリズムは「地域での活動が自然にナショナルなものにつがなる」ような形になっているという話である。金は、少年団でのサッカーが地域選抜から日本代表につながっていくというような図式に重ねて*1読み解く。

ここで、末端ではナショナリズムが持ち出されないことが特徴的だと指摘されるのが興味深い。日本の、地域での少年サッカーはコミュニティに組み込まれた形で実施され、そこからだんだんナショナルなものに繋がっていく。また、活動のなかで自然に「日本的」な価値観が教えられる。ローカルなものとナショナルなものの区別は日本では曖昧になっているという。

一方、韓国では少年サッカーは地域コミュニティとかなり分断されているとされる。活動は学校に拠っていて、地域コミュニティの関与はない(地域でのサッカーは全く別なものとしてある)。選手を支えるのは、家族と国家のために頑張るという意識だという*2。つまり、韓国ではナショナリティとローカリティははっきりと分断されている、という指摘である。

また、サッカーの練習の観察も興味深い。清水の少年サッカーでは、選手が「自分で考えて」正解となっている動きを発見することが重視されている。西帰浦では、最初に動き方を教えて、あとは選手が色をつけていという。読んでいて、「自然に」型にはめていく日本と、型を明示して工夫を許す韓国、という感じの対比図式を思い浮かべた。

金の議論は、日本と韓国の「国家観」の違いという話につながっていくように思う。これは僕の感想だが、誰もが「自然に」ナショナリストになるとみなされ、それゆえ殊更にナショナリズムや反ナショナリズムを表明することが奇異にみられる日本と、はっきりとナショナリズムを表明することが期待されるが、「国や個人のあり方」については幅広い意見の表明が容認される韓国の違い、という感じだろうか。他にも色々とネタがあるのだが、とにかく勉強になった*3

*1:実際には少し違うが

*2:このあたりは「儒教意識」「忠孝一体」「両班志向」という言葉で表現される。戦前、戦後にわたる歴史的・政治的状況との関連については、この短い感想のなかでは書き切れない。ただし、基本的には「自分のため」であることはもちろんはっきりしている

*3:「コミュニティを経由するナショナリティ」と「個人を直接統括するナショナリティ」という話にまとめると、與那覇さんの図式にもつながっていくのかもしれない。