知を商うものとして、戦争法案に反対します

自分が知識人であるかどうかはよくわからないのですが、「日本語を使って学校で教えること」から収入の過半を得ている者として。
戦争法案に反対します。日本が、戦争行為に加担することに反対します。

戦争は必ず犠牲者を産み出します。殺される人があり、殺すことによって傷を負う人があり、様々な形での生活や精神の破壊があります。そして、戦争に直接関わらなかった人々の生活をも、「戦争に基づくもの」にしてしまいます。戦争は、最も深刻な形で、社会の内部における不公正や対立を産み出します。過去において、戦争が大きな悪を阻止したり、是正したりしたことがあるのは確かです。しかし、そのことは戦争の悪を相殺したり、帳消しにしたりしません。それは、戦争に反対する他にもなすべきことがある、ということを示すにすぎません。戦争は、決して正当化できません。

僕は、戦争を肯定する社会で生きてゆくことができません。なぜなら、正義と公正と平等を人生の原理とすることと、戦争を肯定する社会において知識を生業とすることの間には、根本的な矛盾があるからです。「知」のあり方は、社会に依存します。社会に肯定されないような姿で、知識人なるものが存在することはできません。

第一に、「知」は人に極めて重要であり、人生のあり方そのものに関係しはするけれども衣食住やエネルギーのように、「それなしでは生存そのものが脅かされる」ようなものではない、という点において。このために、知識人は人が「剰余をそこに振り向けてよい」と考えるような存在であることしかできません。反体制的な知識人もまた、非主流的な部分社会に依存しているのです。第二に、知は、一般に生産や統治のための手段として利用されるという点において。社会生活が人の本質であり、知が人の反省であるという本質がある限り、この点を否定することはできません。それが独裁者であるか、民主政府であるか、直接民主制を取る共同体であるかはともかく、知は本質的に権力と結びつきます。

「知」や「知識人であること」は、社会のあり方と密接に結び付きます。社会が公正で平和である時には知もまた公正で平和であり、社会が不正である時には知もまた不正なのです。僕は、不正や、抑圧や、破壊に加担したくありません。同時に、社会や権力と一切かかわらないことも、考えることや教えることを止めることもできません。

それゆえ、僕は、自分の立場から要請します。僕が所属する社会と、それを統治し、またそれに依存する国家が、戦争に関わらないことを。