戦死者の慰霊について考えたこと

ツイッターに書いたことに少し加筆してまとめ。フェイスブックとは重複御免。

僕は、この件に関して、塚本学さんという歴史研究者が「「戦没者追悼平和祈念館」と地方史」という論文(エッセイ)http://ci.nii.ac.jp/naid/40002374704 …にまとめられた見解に多くを教えられた。ただ、ウェブでは公開されていないので、一部引用を交えて紹介する。
ここでは戦没者の慰霊をどう考えるべきか、という問題が提起されている。塚本はまず、幕末・戊辰の内戦に思いをはせる。靖国神社にはもちろん「皇軍」の側の人だけが祀られている。つまり、幕府側について闘った人は入っていない。その結果、ややこしいことに禁門の変で戦士した会津藩士は祭神になっているが、戊辰戦争で戦死した会津藩士は祀られていない、というようなことになっている。しかし、実際に闘いが起こった場所では幕府側、朝廷(新政府)側の死者がともに慰霊されている場合が多いのだそうだ。塚本はこれを「もともとは両者をともに異境で不慮の死を遂げたとみる目であったのではなかろうか」と述べて、慰霊は政治的文脈を抜きにして行われるべきだ、と主張する。この考えを太平洋戦争にも援用してはどうか、というのが論文の主旨だ。

少し引用する。

「…戦争の性格規定こそ先決でもあり出発点でもあるとし、個々の経験とそれに根ざす感情とを狭量な視野として退ける感覚があるとすれば、私はこれに反対する」
「個々の戦没者の生死を、大日本帝国の戦争貴任の糾弾にくらべて片々たる些事とみたり、かれらの死を、指弾さるべき行為の必然の結果として一括できるかの感覚が、もし歴史研究者のなかにあるとしたら、私はこれに与することができない」
戦没者に比べてはじめから賢明なるがゆえではなく、戦没者の生死から学びとって得られる賢明さこそが期待される」

これは、言うまでもなく、戦死者の慰霊を否定しない立場である。しかし、話はこれだけは終わらない。逆の政治的文脈からも相対化されることが慰霊には求められるからだ。塚本は言う。戦死者の慰霊に「死後もむくわれていないという思いが、…及ぼされるとしたら、そうした感覚は否定されなければならない」 「天皇への忠誠と敵国への強烈な敵意との志を遺書に遺した戦没者も少なくない。そのような遺書は、痛ましい歴史の証言としてかれらの生死の貴重な記録であり、後世に伝えられるべきだが、そのような志を継承すべきではない」。
しかも、「戦死」というのも一様ではない。「最後まで戦友の友情に包まれた美しいはなしもある反面に、飢餓や海没の状況で、自分の生命を守るために友人の生命を犠牲にするといった場面もあった」。また、軍隊内での階級による差別もあり、私刑による死、自殺や逃亡・抗命による死もあり、それらが「戦死」として処理された場合も事情がオープンにされた場合もあった。もちろん戦犯の問題もある。
また、塚本は「ごく少数ながら、戦争に反対し、ないし戦時体制への批判者として獄中に生命を落としたひとがあった。かれらも戦没者として意識するのがただしいと私は考える」という指摘もしていて、この点も重要だと思う。
そしてもちろん、当時日本の植民地とされていた地域から徴兵、徴用されてきた人々のことも忘れることはできない。その人たちも様々な思いや事情があったはずだし、なくなった状況にもさまざまなことがある。また、軍人・軍属ではないが軍隊とともに行動して命を失った人もあるだろう。その人たちも「戦争のために不慮の死を遂げた人」であるに違いない。
さらに、(これも塚本の指摘にあるのだが)住んでいるところを戦場にされてしまった人々のことがある。『レイテ戦記』で指摘されるようなフィリピンの人々、太平洋の島々、東南アジア、中国、沖縄からアリューシャンに至るまで、さまざまな土地で戦争のために家を焼かれ、命を失った人たちがいる。むろん、日本本土の空襲による死者もこれに加わるだろう。
そしてさらにさらに、これは塚本がオミットした点なのだが、連合国側で亡くなった人々のことがある。捕虜として、「スパイ」として日本軍の管轄下で亡くなった人がいるし、戦死者を除外する理由もない。これらすべての人々が戦没者であり、追悼、慰霊の対象である。

もちろん、全ての対象者を常に慰霊することはできまい。地域によって、施設によって偏りが出ることは自然なことだと思う。だけど、志としてはそのように考えられるべきだと思うのだ。意義や意味によらず、全ての戦没者を追悼するということだ。総理大臣が参拝するのは、まさにそのような施設であるべきだろう。そして、そのための施設として靖国神社が作られているとも、それにふさわしいとも思わない。