リスクに支配される社会(試論)

突然、僕らはリスク社会の姿を知ることになった。地震に理性を揺さぶられ、津波に心から怯え、被災された方々とともに寒さに震え、生存者の救出を信じ、把握できないほどの数の物故者の冥福を祈ろうとする間にも、そいつが襲いかかってきた。
それは、今まで聞かされてきたのとは違う光景だ。あのチェルノブイリ事故をきっかけに書かれた書物のなかでベックが言ったような、「誰にも平等にリスクが降りかかる社会」という面は確かにある。だが、今回の地震をきっかけに見えてきたのは、「リスク情報に支配される世界」である。いつのまにか、僕らはそれにどっぷりと首までつかっていたのだ。

全てがリスク評価になる

この社会では、重要な情報はリスク評価の形になることが求められる。だから、余震の警告は確率として発された。放射線障害の正しい情報として求められるのは、平常値との比較でも線量の数値でもなく、発がん率の上昇の度合いだ。不正確なものであっても放射性物質の拡散モデル展開についてのはリスク情報として歓迎されたし、今後の予測を避ける専門家はメディアから遠ざけられた。そこにはリスク評価につながる要素がなかったからだ。

リスクに関して注意すべきことの一つは、個人のレベルではリスク情報のリテラシーは重要ではないということだろう。低いリスクを恐れること(あるいは、高いリスクを恐れないこと)は、それ自体、特に非理性的な態度ではない。それが重要な違いであるように見えるのは、我々がリスクの言説にあまりにも深くとらわれれているからだ。確率の形で与えられる情報は、個人の運命の予測には何ら貢献しない。推測統計学の初歩的な知識があれば誰にでもわかることだ。統計は集団に対してでしか有効ではない。確率と蓋然性は異なる。どれほど確率が低かろうとも、可能性のあることは起こるときには起こる。それがあなたに降りかからないという保証はどこにもない。リスクは一人ひとりの未来については何も言わないのだ。

リスクに支配される

だが、我々にリスク社会から逃れる方法はあるだろうか?リスク情報は、危機がまさにリスクとしてしか認識されようがないから発信されるのだ。他のありようはない。もっと確実な情報などというものはないし、「より我々に合ったやり方」もない。改善を求めることも、撤退することもできない。これまでの事態と根本的に違うように見えるのはそこだ。これまで、社会の変化はいつも海の向こうから来た。新自由主義も、男女共同参画も、情報化も、福祉社会も、近代化でさえも、いつも外国から輸入されたものだった。今回は違う。震源はあらゆる意味でここであり、事件は文字通りに我々の足元で起こった。

これまでは、いつでも「日本的」という逃げ道があった。それは概ね錯覚だったのだが、ともかくも逃げ込める先が見えていた。だが、今回はそれはない。僕らは自分たちのものとしてリスクを認識した。確率で与えられる情報が、自分自身の思考の基本的構成要素であることを知ったのだ。逃げ道はない。ならば、せいぜい怖がり方の程度を競うくらいしかやれることはないではないか。

リスク管理に殺される人々

こうして自画像が完結する。リスクに支配されるしかない我々がいる。その範囲のなかで僅かな差異が競われる。救いようのない話だ。だが、それで終わりではない。そのようにすらなれない人もいるのだ。この世界では、リスク管理のために死んでいる人がいる。
たとえば、放射線障害のリスク。それを下げるために避難がおこなわれる。だが、そこに不備がある。あるいは不備を補うための時間や労力がない。そのために避難先で亡くなる人が出た。避難区域内の、地震津波で倒壊した家屋の中にいたかもしれない負傷者については言うまでもない。あるいは、交通渋滞のリスク。それを避けるためにボランティアや救援物資の多くの輸送が制限される。その先にあるのはやはり避難所での死である。
これらの、書くことすら辛い悲劇の多くは、おそらく回避できたものだ。だが、その幾分かは本質的な、回避不能なものだろう。そして、それはリスク管理の観点からみて正しいことでもある。なぜなら、リスクは常に集団的なものだからだ。確率による思考を採用した時点で、政府は集団の保護を優先している。そして、死者は決して集団の一員ではないのだ。

リスク社会を生きる

どうしようもないのだ。ある意味では。僕らはあまりにも巨大化し、複雑化した社会に生きている。そこでは、出来事はすべて確率的にしか理解できず、統治は集団に対して行われるほかない。だから、問題は、その中でどう生きるかにある。チェルノブイリの退去勧告地帯でも、昔ながらの暮らしを続ける人がいる。ガンになるリスクは、その人たちにとっては問題ではない。未来の安全よりも今の充実を優先すること。それは、リスク社会への一つの立ち向かい方である。

もちろん、抗うことが全てだとは思わない。リスクについての知識が役立つことも多いのだから、無知が称賛される理由はない。差し迫った危機や苦痛を度外視することは醜悪ですらあるだろう。だが、それでも、その現実の中で僕らがよりよく生きる方法はあるはずだ。そして、よりよく生きられるように世界を改造する方法があるはずだ。