一年後にエルサレム賞がらみのことなど

一年というよりはもうちょっと経っている、というのが僕の実感なのだけど、振り返りの記事を書いておられたので、色々思い出して。

僕はこの件に関して、何本かの記事を書いた。メインに位置付けていたのは、
この記事「春樹イスラエル再話」と、
この記事から始まるシリーズ「村上春樹的な政治」だ。
対立というにはおこがましく、他の方がどう見られていたのかはわからないのが、割と時間は使った。今から見るとずいぶん未熟な部分もあるのだけど、まあ、あれはあれでよかろう。

で、これも今から考えると、ということになるのだけど(我々は後知恵の帝王だ)、僕が書いていたこととmojimojiさんが書いておられたことには、それほど大きな違いはなかったように思う。たとえば、ちょっとだけ文脈を無視して引用するが、上の記事ではこんなふうに言っておられる。

村上春樹もろとも批判するのか、それとも、村上春樹を踏み台にして批判するのか。それはスピーチ次第でどちらでもよいのであって、テクストを読み込んだ上でやるのであれば、どちらでもよいはずだし、どちらもいけたはずだ。


僕は、この記事で、これも文脈を無視して引用するが、次のように書いていた。

重要なのはイスラエルの行動を止めることで、そのための手段の一つとして(ボイコットという)村上春樹のパフォーマンスがある。そういうことなのだ。いくら本人やファンの心情を理解したとしてもガザの人々を救えるわけではない、これは基本的な事実だ。


だから、そこには対立点はない。村上春樹に関連して政治的主張を行なうことは、他の要素に優先される重大な事柄だった。それについて、僕に異議はなかった。僕にとって重要だったのは「政治と文学の関係」という問題だった。政治と文学の関係にひっかかっていたのではない。「政治と文学の関係」という問題化のしかたそのものに違和感を感じていたのだ。それは、先の振り返りの記事で使っておられるキーワードでいえば、「切断」ということになる。「『政治と文学は別なものとして理解されるべきだ』という切断はおかしい」という主張が、当時されたし、今もされている。ふたたび振り返りの記事から、今度は文脈を考慮して引用する。

スピーチの内容がどうあれ、そのスピーチはある文脈の上に置かれた。そこでパレスチナ問題に触れて語ったのであれば、少なくともそこにおいては文学とパレスチナ問題をセットで話題にしなければならない状況が生じたのだし、仮に一切触れずに語ったのだとすれば、その「一切触れずに語った」こと自体がパレスチナ問題の文脈において意味を持っただろう。それは、「文学に用がある」「パレスチナに用がない」人においてさえ、パレスチナ問題に対する無視と無関心を破らざるをえない一瞬ではあった。


このような考えかたに、僕は違和感があった。それは政治と文学に関係がないと思っていたからではない。それがある、ということ自体が、既に当たり前すぎるほど当たり前になっていると思っていたからだ。もういちど、前にも引用した柄谷行人を引こう。

彼が反発しているのは、政治と文学を分けたり、才能と無能を分けたりするような思考である。そのようなわかりやすい二元性を拒否することが彼が志向する文学だったのである。転向時代において、芥川のいったことがふたたび表面化する。文学の「才能」では負けないといった自負が、転向文学者たちを支えたのだ。しかし、いわば、それは「道徳的に外れて」いる。文学をやめて政治をやるとか、政治をやめて文学をやるとかいった考えそのものが「まちがっている」。
柄谷行人、「中野重治と転向」『ヒューモアとしての唯物論講談社学術文庫、p199


「個人的なことは政治的である」という言いかたがあって、80~90年代にフェミニズムの世界で多用された。それは、核戦争や金融危機のような大事件に比べれば、セクハラや昇進差別などは遥かに優先順位の低い瑣末事ではないか、というありがちな解釈に対するアンチテーゼだった。政治は身近なところからスタートするほかない、というのだ。それはもちろん、60年代的な、日本でいえば「全共闘的な」行き方への問い直しと戦略の再編成を含んでいる。それに対して、その有用性を認めたうえで、大事件もやはり個人の生活にとって重要ではないか、という意味で「政治的なことは個人的である」という言い方もなされたし、いくつかの革命が私生活に積極的に介入したことを受けて、その結果ひどい目にあった人たちの立場にたって「個人的なことが政治的であってはならない」というような言い方もされた。全部、今からかなり前におこなわれたことだ。

僕が言いたかったのは、そういうことを全部無視して(とりわけ、村上春樹が正に「全共闘的な行き方への問い直し」という文脈で仕事を始めたことを無視して)、もう一度「文学と政治の関係」を持ち出すのは、いわば「車輪の再発明」なのではないか、ということだった。何というか、話が再びスタート地点に戻されているような気がしたのだ。

もちろん、それは無条件に悪いことではない。車輪のアナロジーに拘るなら、折角発明されたのに普及していないのなら、再びそれを取り上げて広めていく、というのも意義のあることだ。世界は、直線的にではなく、螺旋階段のように、同じ所を往復しながら上昇してゆくのかもしれない。だから、僕はmojimojiさんの書かれていることを否定しようとは思わない。当時も思わなかったし、今も思っていない。僕は、たとえ結果として特殊で有用でないものになったとしても、方法を洗練してゆくことに喜びを覚えるタイプだし、mojimojiさんはしっかりと結果を出してゆくことを重視されるタイプの方なのだ。どちらが社会に貢献し、有益であるかといえば、mojimojiさんのほうに決まっている。

だから、僕はここで、どうでもいいようなことをダラダラと書き綴っているだけだ。ただ、自分がこんなふうに考えたということ位は、一応、書いておこうかと思う。