ナクバ法とか

イスラエルで、ナクバ法というものが可決・成立しかかっているらしい。ナクバとは、とか僕が書くより、このブログを引用したほうが早い。
イスラエルの迷走ーナクバ法」Bananian Blue

先月、「ナクバ」を追悼する者を処罰するという法案がだされ、現在1回目の投票を可決し、議論をよんでいます。「ナクバ」とは、パレスチナ人にとっての大悲劇である、ユダヤ人にとってのイスラエル独立記念日のことです。イスラエル独立記念日は、ユダヤ国民にとっては歌い・踊り・BBQ と華やかに一日が過ぎますが、パレスチナ人にとっては最も忌むべき日であり、悲しみに暮れる日となります。そのため、イスラエル・アラブの中には、独立記念日にナクバを追悼する人々もいます。その人々を法律で罰しようとする法案が「ナクバ法」なのです。

このブログを書いている人はイスラエルに住んでいる日本人で、キブツとかにもコミットしている方ではなかったかと思う(時間がなく、先行する記事を再確認する暇もないままに書いているので記憶違いかもしれない。もしそうだったら大変に申し訳ない)。でも、この法律に対しては批判的だ。それを政治的に受け取ることもできるのだけど(「親イスラエルの人ですら反対している!」)、僕は、イスラエルにコミットすることとフェアネスを保つことは両立が可能なのだ、というふうに考えたいかな、と思う*1。話の通じる余地はちゃんとある。
とはいえ、同じブログにあるETV特集についての記事を見ると、やはりことは簡単ではないのだな、という気分にもなる。話ができるというのは、相互理解にも繋るし、対立にも繋がる。一筋縄ではいかないのだ。

で、法律のほうなんだけど…。何だろう、今の勢いだと通ると思う。オバマ演説とかで風向きが変ったりすると良いのだが。

*1:言うまでもないことだが、ここでのフェアネスは国民国家としてのイスラエルを認め、また48年以降に拡張された領土を承認するという枠の中で行なわれている。48年以降を否定し、イスラエルを否定し、国民国家を否定するところに真の、そして唯一の解決策があるという考えを僕は否定しないし、共感できる部分もなくはない(ただ、それだと二国家共存にはならないと思う)。ここで言いたいのは、そうした考えを持たないからと言って、対話が不可能だと考える必要はないということだ