4.郷土の不足とナショナリズム・ワンダーランド

パレスチナが足りない

日本のメディアではパレスチナ問題と旧ユーゴ紛争は、ともに『民族問題』と『宗教問題』として語られることが多い。いや、この表現は正確ではない。『民族』『宗教』という言葉が口にされた瞬間から、日本人の多くは思考停止に陥ってしまい、『二千年にわたる宿命的対立』やら『一神教うしの憎悪の関係』といった説明文句が登場すると、それで議論が打ち止めにされてしまう。

(四方田犬彦、『見ることの塩』作品社、p417)


パレスチナ問題というかイスラエル問題というか、名前は何でもいいが*1、この問題の本質というのはパレスチナが足りないことにあるように思う。
一方にイスラエルがいて「住民が全員ユダヤ人であるようなイスラエル国パレスチナの地(あるいは、ヘブライ語で言えば「エレツ・イスラエルイスラエル人の土地)」)に築き上げること」を目指している。そして他方にパレスチナ人がいて、「イスラエルができる前に祖父や曾祖父が住んでいた土地(そこは概ね、イスラエル人の私有地かイスラエルの国有地にされている)に帰還すること」を目指している*2。両者が矛盾することは明らかで、パレスチナがふたつあればともかく、実際にはそうはいかないので、その「希少な資源」をめぐって紛争が起ってしまうわけだ。

村上春樹の話をしているわけだけど、やっぱり今回のことは問題の背景をきちっと押えておかないと話にならない。なので、どういう感じで見ていこうと思っているのかについて、とりあえず概観。主に参考にしたのは以下の二冊なんだけど、細かい資料は他にもある。あと、全ての誤り(と正しさ)は僕の責任である。

ナショナリズムがやってきた

紀元前とか十字軍とかいうのはともかく、今視野に入れておくべき歴史の起源近くにおいては、現在イスラエルパレスチナ暫定自治区があるあのあたり、つまりパレスチナ地方はオスマントルコ支配下にあった。19世紀も末ごろのことだ。
住んでいたのは主にアラブ系のイスラム教徒だが、もちろん他にアラブ系のキリスト教徒もいたし、遊牧民ユダヤ人も住んでいた。トルコは多民族国家というか、地域の伝統社会の上に支配機構を乗っけるというタイプの古典的な帝国だったから、多様な地域社会があったわけだ。そこへやってくるのが、ナショナリズムである。
もちろん、民族意識といったようなものは太古の昔からあった。それが近代の発明品であると言うの馬鹿げている。とはいえ、19世紀型のナショナリズムというのは独特だ。はっきりした領土と国民意識、法と行政の組織、統一的な文化と言語、そして何より他の国家と対等かつ平等な主権者として認められる国家、つまり国民国家というものを一つの民族が最低一つは持つべきだという考え、それがこのナショナリズムだった*3
この話はヨーロッパから流れてきた。パレスチナの場合、その影響は二つの形であらわれる。そのひとつは、トルコからの独立運動である。ナショナリズムだけが原因ではないのだが、トルコ帝国から独立して自分たちの国を持とうという政治的な動きが現れはじめる。トルコを倒したり中近東に植民地を持ったりしたい西欧諸国が支援したりしたので、この動きは第一次世界大戦のあたりから非常に大きくなる(「アラビアのロレンス」なんかはその典型例だ。イギリス人がアラブのナショナリストを支援してトルコと闘ったのだった)。
そしてもうひとつが、シオニズム運動にのってヨーロッパからやってきたユダヤ人の移民だった。ユダヤ人は、主に地中海沿岸からヨーロッパの各地で少数民族としてずっとやってきた人たちなのだけれど、19世紀あたりから急激にまずいことになってきていた。あちこちに国民国家ができた結果、どこにいても少数派のユダヤ人が組織的かつ集中的に差別、迫害されるようになってきたのだ。
それまでにもユダヤ人の迫害や虐殺というのはあったのだが(ポグロムと呼ばれる)、どこでもかしこでもというのは初めてだったし、「本国」がないと逃げ場がない、というのも意識されはじめる。そこで、ユダヤ人も国民国家を持とう、ということで始められた政治運動がシオニズムだった。色々なプランがあったのだが、最終的に国家の建設地はパレスチナに絞られる。何と言ってもユダヤ教の聖地がある民族の故郷だし、ヨーロッパから見ると辺境の未開地だ。開拓団を送り込み、汗を流して農地を拓いていけば国家の建設は比較的容易だという目算はあったらしい*4。もちろん、そんなものはすぐに外れることになる。

ふたつの独立運動

第一次世界大戦が終わって、イギリスがパレスチナ国際連盟の委託統治領という名の植民地にしたとき、そこにはまだパレスチナイスラエルもなかった。ユダヤ人の国を作ってイスラエル人になりたい、という夢を持っている人と、アラブ人のパレスチナ国を持ちたい、という人とが居ただけだ。あと、表舞台には出てこないのだけど、そのどちらでもない人も大勢いた。厄介なのは、一方の当事者であるシオニストが相手をどう扱うか、よく考えていなかったことだった。マクドワルは印象的な発言を引いている。

イスラエル・ザングウィルは一九一九年に次のように書いている。「ユダヤ人の郷土となるパレスチナはアラブ人のあふれる現在のパレスチナではない…トルコ人の圧制と同様にアラブ人の怠惰がその滅亡に貢献してきたこの国はすっかり再建されなければならない…この国に深く融けこんでいるアラブ人は一人もいない。せいぜいアラブ人のキャンプがあるだけである」彼の言葉はパレスチナの住民をばかにしたシオニストの典型的な気持を現している。

パレスチナイスラエルダヴィッド マクドワル、奥田 暁子訳、三一書房、p268

シオニストだけでなく、全般にヨーロッパ人は中東の人々について根拠のない偏見を抱く傾向があった。そのひとつは、彼らには権利意識がないか希薄だというもので、しかるべき保障や甘言や命令があれば、動産や不動産をさっさとヨーロッパ人に譲渡して去っていくだろうと考えられていた。もうひとつは、彼らにはアイデンティティがないというもので、民族意識や地域へのこだわりはないから移住や移動に抵抗感が薄いと考えられた。財産権や政治意識というのは近代的な国家の住人だけが持っているもので、そうでない所では人々は根無し草的な、支配者の言うがままされるがままになる存在だというのだ*5
もちろん、実際にはそういう傾向は(皆無ではなかったにせよ)ほとんどなかったから、シオニストの入植は多大なる抵抗にあった。入植は現地の人を武力で排除したり(要するにテロだ)、不在地主から土地を買い取ったりしておこなわれ、パレスチナ人という意識を持ち始めていたアラブ系の人々は頻繁に植民地的統治を行っていたイギリス当局に抗議したり、大規模な行動を起してユダヤ人入植地を襲撃したりした。
それでもシオニストが入植と現地人の排除を諦めなかったのは、何としてでもユダヤ人の国民国家をつくるという強い決意があったからだった。パレスチナにちょっとした避難所をつくる、という考えではなかったのだ。ユダヤ人の国、ユダヤ人が多数を占める国でなければならない。そうでなければ、他の国で少数派になったのと同じことの繰り返しになってしまう、という発想があった。そうしなければ生きのびられない、という強い切迫感があったのだ。当時、先進諸国を含めて何百万人ものユダヤ人を受け入れ、自治権も与えようという国家はなかった。まだ近代国家になっていないところを押領してしまう以外に選択肢はなかったのだ。やや懐疑的な人を含めてユダヤ人をどんどん移住させる必要があったため、シオニストは現地に住んでいる人のことにはなるたけ触れないようにもしていたようだ。
その結果、現在でも「パレスチナに住んでいた一握りのアラブ人がすぐに逃げ出したり退去した後、ユダヤ人の国家がおおむね無人の荒野だったところに建国された」というのがイスラエルの大切な神話のひとつになっている。さすがにそんなファンタジーを信じ切っている人は少数だと思うのだが、言葉の端々にそういうことが出るし、神話を積極的に否定する人は社会に受け入れられない*6

一方、パレスチナ側の活動家はとにかくユダヤ人移住者を追い出すことに懸命になった。たぶんそれは当然だ。自分たちがずっと暮してきた土地を、突然やってきた新参者に譲る理由がどこにある?。しかも、彼らはトルコやイギリスからの独立を目指している最中だったのだ。国民意識で盛り上ろうとしている時に異民族の移民を受け入れられるわけがない。
ただ、イギリスの分割統治による植民地支配と、社会の工業化が進んでいなかったために近代的な政治組織を整備できなかったのが痛かった*7。結局、地域の有力者を中心に抗議行動をしていく形になり、しっかりした組織をもち、植民地政府にも効果的に働きかけたイスラエル側にずるずると押し切られてしまう。そうこうしているうちに第二次世界大戦が始まって終わり、ホロコーストのせいもあってユダヤ人国家の成立に好意的な感じの国際世論が構成されていったのだった。

イスラエルは包囲されていたわけではない

もちろん、国際社会が手をこまねいていたわけではない。ユダヤ系の人とアラブ系の人がパレスチナで揉めていることはわかっていたし、それが大問題であることもはっきりしていた。イギリスも何度か妥協案を出したのだが、シオニスト側は断固としてアラブ系住民をパレスチナから追い出すつもりだったし、パレスチナ人にはユダヤ人と領土を分けあうつもりがなかったため、調停は全て失敗に終わった。1947年、翌年のイギリス撤退に備えて国連が領土分割案を提示したのだが、やはり同意は得られなかった*8
48年ごろから双方の争いが本格化した。というか、実際には準備をととのえて武装していたイスラエル側がどんどんアラブ系住民のエリアに攻めこんでいくという展開になったようだ。占領した地域ではあるシオニストが「これではまるでナチスではないか」と言ったような残虐行為がおこなわれ、アラブ系住民がどんどん追い出された(パレスチナ人の間では、この事件を「ナクバ」(大惨事)と呼んでいる)。当然、近隣のアラブ諸国(当時独立したばかりだった)にもパレスチナを救え、という世論が盛りあがった。5月にイギリスが撤退するとイスラエルが独立を宣言し、同時にエジプト、シリア、ヨルダン(当時の国名はトランスヨルダン)、イラクレバノンが宣戦布告した。第一次中東戦争である。イスラエル側から見れば、独立闘争の最中に周囲の諸国が全部敵対してきた、という話になる。
ただし、準備を整えていたイスラエルに対し、アラブ側にはパレスチナを含めて闘う準備ができている組織はほとんどなかった。パレスチナ人の軍事指導者は植民地時代に海外追放されていたから武装勢力を組織する時間はなかったし、近隣のエジプトやシリアは独立したばかりで戦争をするような余裕はなかった。実際、この二国は国連の調停によるイスラエルパレスチナの停戦と、イスラエル国パレスチナ国による領土の分割を望んでいたのだ。介入に積極的だったのはヨルダンである。
ヨルダンの動機は国王であるハシーム家(ハシミテ)の領土的野心だった。もともとメッカの支配者だったハーシム家はトルコの没落に乗じてアラブ全体を統一しようという野望を抱いており、肝心のアラビア半島は振興のサウド家に譲ってしまったものの、イラク国王の座は手にしていた。イラクからレバント地方一帯を大シリアとして統一しようという野望を彼らは抱いていたのだ。そのためのステップとして、パレスチナの東半分を獲得しようというのが戦略で、実はイスラエルとも密約ができていた*9。とはいえ、実際には軍隊を入れて領土獲得しなければならない。うっかり停戦が成立して、パレスチナ国家ができてしまえばえらいことになる。というわけでヨルダンが宣戦を引っ張り、ヨルダンにアラブの主導権を握られたくなかった他の諸国(征服される恐れもあった)も追随して参戦したのである。
もちろん、そんなことで戦争がうまく行くはずもなく、色々あったものの結局はイスラエルに各個撃破されて終る。49年の停戦のあと、イスラエルは国連の分割案を遥かに上まわる領土を手にしていた。南部ではエジプトがガザを占領し、トランスヨルダンはパレスチナ東部の「ヨルダン川西岸地区」を確保する(後にヨルダン・ハシミテ王国として領土を確定)。

パレスチナイスラエル

第一次中東戦争でひどい目にあったのは誰かと言えば、もちろんパレスチナ人である。70万人以上の人が家を追われて難民となり、国土になるはずだった土地はイスラエルとヨルダンとエジプトに分割され、地図の上からパレスチナという文字すら消え去ったのだから。
これ以降、抵抗運動が本格化し、パレスチナ人の政治的目標がはっきりするようになる。それは、帰還権ということ、1948年以前の状態に戻りたいということだった。1967年に第三次中東戦争の結果として西岸とガザがイスラエルの占領下に入ると、占領地の返還やエルサレムの帰属が問題に加わり、占領地が暫定自治区になって状況が変ったりしてはいるが、難民の帰還権は常に中心的な問題だった。西岸で、ガザで、イスラエル領内の抑圧された村や都市で、様々な場所にある難民キャンプで、社会主義からイスラム原理主義に至る様々な政治組織が生れたが、帰還を前提としない運動はことごとく支持を得られず失敗に終っている。その理由は、大きくわければふたつあった。一つは、ナクバがパレスチナナショナリティの中心に据えられたことだった。それは、パレスチナという実際には存在したことのない国の「建国神話」となったのだ。明治維新アメリカ独立戦争キューバ革命がそうであるような、国民の誰にも共有され、その意味にあまり疑問がさしはさまれない出来事に。イスラエルの存在ゆえに我々は団結する、とは誰も言わないだろうが、1948年のナクバを無視してパレスチナ人のアイデンティティがありえると考えるのは馬鹿げている。それ以前には様々な対立や足並みの乱れがあったのだ*10
第二は、パレスチナ以外では難民の生活が成り立たなかったことにある。パレスチナ人を受け入れて自治権を与えようという国はなく、西岸やガザにも難民を含む人口を支えるだけの経済基盤はなかったため、ほとんどのパレスチナ難民は今日まで援助によって生活せざるを得ない状態が続いている*11パレスチナに戻るという以外に、将来にいかなる展望も描けないという状況なのだ。
我々はイスラエルによって奪われた国の国民であり、必ず帰還する。そして、真に味方となってそれを支援してくれるものはどこにもいない、これがパレスチナアイデンティティである。

他方、イスラエルアイデンティティの源泉も非常にはっきりしていて、イスラエルの地にユダヤ人の国をつくる、という点に集約される。それは、当初パレスチナ無人の地だったという開拓の神話や、イスラエルの戦略的勝利だった第一次中東戦争を、徒手空拳の男女による侵略者との闘いとして理解する独立戦争の物語にはっきりと現れている。ユダヤ人がつねにそうであったように、ここ中東でもイスラエルはいわれなき敵意と迫害に包囲されているのだ。だから、全力でそれらに立ち向わねばならない。イスラエルの美点が、資本主義や民主主義に読み変えられることはあるかもしれないが、「異質で悪意ある敵の包囲」という図式は常にはっきりしている。
イスラエルの建設というのは、現実面ではふたつの現れ方をしていて、そのひとつは軍事的・戦略的なものである。イスラエルの狭さは、防衛戦略上の確かな弱点だった。侵入してくる敵を捕捉して弱らせ、最終的に撃破するだけの空間がないのだ。度重なるイスラエルの侵略は、国土を拡張して戦略的縦深を得るため、という目的を確かに持っている。また、人口と経済を支えるための水源の確保という側面もあった。
もうひとつは、異質なもの、つまり非ユダヤ人の排除である。イスラエルユダヤ人の国であるためには、ユダヤ人が少くとも多数派でなければならない。この目標を達成するために、イスラエルは一貫してアラブ系の国民を冷遇し(外国に移住させたい、という非現実的な願望もあるようだ*12)、領土の隅々に入植地を配置してきた。政策として、あるいは自主的な政治運動としてされたそうした運動は、初期のシオニズムイデオロギーとも合致していた。つまり、ユダヤ人には労働のための空間が必要なのであり、イスラエル各地でユダヤ人が働くことで、そこはユダヤ人の国になるのだ。
近年におこったシオニズムの変容は、このアイデンティティの根深さを示している。海外からのユダヤ人移民(「帰還」)のペースが落ち、出生率が低下してきたために、人口はむしろ不足気味になり、労働シオニズムの主張が成り立ちにくくなってきたのだ。代って台頭してきたのが新シオニズムであり、そこでは宗教的な側面がより強くなっている。イスラエルは神によってユダヤ人の手に与えられたのであり、それ以外にはいかなる理由もいらないというのだ。こうした主張が力をもつにつれてイスラエルの世論も右傾化し、軍を賞賛したり、対パレスチナ強硬論を唱える人も増えてきている。
つまり、簡単に言えば、理由は何でもいいのだということだ。ユダヤ人の国民国家としてイスラエルを作り、それを存続させる。それこそがイスラエルアイデンティティの中核にあるものなのである。

最初に戻る

それで、話は最初に戻る。

一方にイスラエルがいて「住民が全員ユダヤ人であるようなイスラエル国を築き上げること」を目指している。そして他方にパレスチナ人がいて、「イスラエルができる前に祖父や曾祖父が住んでいた土地に帰還すること」を目指している。両者が矛盾することは明らかで、パレスチナがふたつあればともかく、実際にはそうはいかないので、その「希少な資源」をめぐって紛争が起こる。対立の図式は明確で、かつその原因は解消のしようがない。まずそのことを認識する。

*1:何でも良くない人がいる、ような気がするのでちょっと。呼び方に重大な意味があることは認めるがいちいちPCっぽくしたり、長大な断わりを入れていたのでは文章が長くなりすぎるし、無用に敷居が高くなってしまう。とりあえずここでは人口に膾炙している「パレスチナ問題」で統一する。途中で気が変るかもしんないけど。

*2:「一方にイスラエル、他方にパレスチナ」という言い方をここでするしこれからもするが、それについて「両者があたかも対等の責任と立場で闘争しているような印象を与える」という批判があるかと思う。それは全くそのとおりで、実態としては強力強大かつ凶悪なるイスラエルが一方的にパレスチナを攻めていることは疑いがない。とはいえ、では実際にパレスチナの人に「君たちは弱すぎるからイスラエルと闘争はできないよ」と言ったら多分怒られると思う。そういう理念的な図式において、両者は敵対者として存在している。その意味でこの表現を使う。

*3:逆にいうと、国家をもつものが民族だということにもなる。国家は目に見えるが民族性は多分に不定形だから、この話は時としてとても錯綜したし、今もしている。

*4:労働によって権利が獲得される、というのは19-20世紀にかけて幅広く流布された思想の一つだと思う。スターリニズムやナチズムを思い出すが、シオニズムもそれに似た面を持っているわけだ。もちろん、だから悪いわけではないが、若いころのアイヒマンシオニスト接触があったという話を少し思い出す

*5:おそらく、戦前の日本人も中国人やコリアンに対して同じような偏見を抱いていたはずである。

*6:たとえばイラン・パペ教授の境遇を参照。http://palestine-heiwa.org/doc/2007/pappe.html

*7:有力な政治家が独立運動とのからみで追放されていたことも影響した

*8:イスラエルはこの分割案を受け入れた。ただし、境界線を尊重するつもりはなかったようだ。

*9:当時ヨルダンは中東最強といわれる近代的な機甲軍団を保持していた。イスラエルは見返りに経済援助を約束したと言われる

*10:あるいは、PLO憲章の第5項を参照。「パレスチナ人は,退去させられたか,そこに留まったかに関わらず,1947年までパレスチナに正規に居住していたアラブ人のことである。それ以降,パレスチナで生まれたかどうかに関わらず,パレスチナ人の父から生まれた子どもはみなパレスチナ人である」。

*11:国によっては難民の就労も制限されている

*12:難民の受け入れさえなされていない状況でそれが実現する見込は全くない。念のため。