パレスチナ側から見る

前の記事の一部にしようかと思っていたのだけど、こっちに。

パレスチナについてのスタディーをしている、というようなことを数日前に書いたのだけど、もちろん、通りいっぺんのことは知っているつもりだった。で、今回はそれを越えるようなものを探していたのだけど、結論から言うとそれはまだ途中。僕はパレスチナ人の世界観とか思想とかが知りたく、かなりまとまったテキストを探しているのだけど、オンライン、オフラインともに外からの視点で書かれたものが多数を占めていて、なかなかこれというものに出会えずにいる(もちろん、文化的な偏りがあるのだ。まあ、入試シーズンなので、大学図書館が店じまいしているのも痛いんだけど)。なので、これまで見てきたものをもう一度読み返すというのに近いことをやっているのだけど、印象的なものをクリップしておこうという気になった。イスラエル側の話ばかり載せていると、何年かたって、自分でこのブログを読み返して、この一連の事件についての印象を全く間違ってしまうというようなことにもなりかねない。

まず基本的に一番すごいサイト。パレスチナ情報センター

特にここのアーカイブが圧倒的にすごい。ニュースからブログまで、ネットで日本語で読める情報はほぼ網羅しているのではないかと思う。もちろん若干の偏りはある。だが、それはやむをえない。イスラエルに軍事占領されているパレスチナからの情報を集約しているサイトに、イスラエルに対してフェアであれと言うのは無理だ。そんなことを気にする前に、生の情報にどんどん触れたほうが良いに決まっている。

で、ここからいくつか拾う。まず、ひとつめ。

エルサレム国際ブックフェア参加と「エルサレム賞」受賞に関する村上春樹氏への公開書簡」http://palestine-forum.org/doc/2009/0129.html

私たちは、イスラエルがガザで1300人以上の尊い命を奪い、500人の重傷者を含む5300人以上の負傷者を出し、大勢の人々の生活を破壊しつくすという戦争犯罪を犯した直後のこの時期に、世界的に著名な小説家であるあなたが、イスラエル外務省、エルサレム市が全面的にバックアップする公的行事であるこのブックフェアに参加され、エルサレム市長から「エルサレム賞」を受賞されるということの社会的・政治的意味を真剣に再考されることを強く求めるものです。

また、昨年11月にエルサレム市長に当選したニール・バラカット氏は、これまでの歴代市長と同様、東エルサレムにおける違法入植地の建設続行を表明しています。エルサレムの首都化、東エルサレムの併合、同地区への入植地建設は、いずれも国際法違反でありながら、イスラエルが強引に既成事実化をはかってきているものです。その結果、真の和平はますます遠ざかりつつあり、エルサレムのみならず、被占領地に暮らすパレスチナ人全体がアパルトヘイト政策の犠牲者となっています。彼らの「社会における個人の自由」はイスラエルによって徹底して抑圧され続けていると言わざるを得ません。

以上2点、まったくそのとおりであると言うほかはない。エルサレム市政についての無知も恥じる。これまで選考委員のことを書いてきたけれども、実施主体から見ればエルサレム賞の政治的位置は疑う余地はない。こういうことを誤魔化したり無視したりすることは議論そのものの価値を損なうと思う。ただ、ボイコットには賛成しない。その理由については後日書く。

で、こうなると歴史の話に行きそうになるのだけど、それはちょっと今ストップして、イスラエル国内でパレスチナ人がどういう状態になっているのかについて。

ビデオ48の新作ドキュメンタリーフィルム『シックス・フロア・トゥー・ヘル』征服されざる人々:イスラエルパレスチナ不法労働者たち

http://www5a.biglobe.ne.jp/~polive/news/challenge109.html
イスラエルにはパレスチナ人のひとがけっこういる。わけがわからなくなるので簡単に整理しておくと、現在イスラエルがあるあたり一帯の地理的な名称がパレスチナ。で、イスラエル建国前からそこに住んでいたアラブ系の人たちがパレスチナ人である。中東戦争その他の結果、イスラエル領になった*1ところに住んでいて一応イスラエル市民権を持っているパレスチナ人と、ガザや西岸のパレスチナ自治政府エリアに住んでいて、「占領下の外国人」的な扱いを受けているパレスチナ人とがいるわけだ。で、その人たちがどうなっているのか。

2005年のある日、「ビデオ48」のメンバーであるヨナタン・ベン・エフラートは、テルアビブ郊外のジャンクションで仕事を探しているパレスチナ人労働者たちを見かけた。立ち止まって話しかけてみると、彼らがシャバヒーム、つまり不法滞在者であることがわかった。検問所と分離壁を迂回するのは、危険な上に時間と金がかかるから毎日通勤を続けるわけにはいかない。彼らはイスラエルで週日をすごし、シャバット(訳註:ユダヤ教安息日。金曜の夕方〜土曜の夕方)には西岸地区に戻っていく。ベン・エフラートは、どこに寝泊まりしているのかと訊ねてみた。答えはなかなか戻ってこなかったが、彼のアラビア語と政治的立場を聞くと、パレスチナ人たちはエフラートを地下の駐車場へと連れていった。未完成のまま放置されたショッピングモールの地下6階にあり、悪臭が漂っている。あたりは真っ暗だ。男たちはここでほとんどの夜をすごしている。子どものころからずっとこの場所に寝泊りしてきた人々もいる。

上の記事で書かれていた、「アパルトヘイト的状況」というのが要するにこれだ。彼らは二級市民、外国人労働者としての扱いを受けている。で、どうしてこうなったのかというと、

購買力平価によるイスラエルの一人あたりGDPは28,800ドルだ。2006年のヨルダン川西岸地区ガザ地区では1,100ドルだったし、現在ではこれよりも低いだろう。どうしてこれほどの差が生じるのだろう? どうして後者では経済が育たないのだろう。

「シックス・フロア」の中ではジャラールと同じ言葉がくり返され、労働者たちはファタハを非難している。ファタハオスロ合意後に各国から資金援助を受けていたのに、経済基盤を整備しなかった。これはそのとおりだが、原因のひとつにすぎない。短い導入部で映画が語っているように、彼らは1967年以後にイスラエルがとった政策の犠牲者なのだ。この政策は、被占領地域が独自の経済発展をすることをゆるさなかった。イスラエル当局は二つの方法でこの政策を推進してきた。

まずイスラエルは被占領地域に補助金を受けたイスラエル製品を大量に流通させた。これにパレスチナ人企業家は太刀打ちできなかった。こうして20年もの間、西岸とガザ地区イスラエルにとってアメリカに次ぐ輸出先となった。

次に被占領地域は、イスラエル最大の低賃金単純労働者の供給地となった。直前に、軍事統制からは自由になったイスラエル市民権を持ったアラブ人(訳註:イスラエル領内のパレスチナ人都市・町村は1966年まで軍政下に置かれ)に西岸地区やガザ地区の住民を加えると、イスラエルの工場労働者の4分の1 近くがパレスチナ人ということになった。半数は建設作業に従事し、残りの半数はホテル、自動車修理工場、清掃などのサービス業で働いた。

誰の目にも明らかなことだが、これは植民地政策だ。パレスチナ問題にそういう面があるということは、実は案外知られていないのではないか。民族的な誇りの問題はもちろんあるだろう、先祖代々の土地を奪われた恨みももちろんあるはずだ。だが、僕の目にはこの圧倒的な経済格差、人種差別に基づく経済格差が一番深刻な問題に写る。


さて、これに加えて西岸やガザに対する締めつけの問題がある。これについては一般的に話が広がったと思って良いのだろうか?ともかく、ひとつ、きわめつけにひどい話を引用する。これは、今回の侵攻の一年以上も前の話だ。

新しい通信:「ガザでの4人の死」http://0000000000.net/p-navi/info/news/200803152330.htm

ファーティマ・アル・ラダウィ(45歳)は、10人の子供の母親だった。2007年9月、ハーン・ユニス(ガザ地区)のヨーロッパ病院で、外傷性ショックで脾臓が内出血と炎症を起こしていると診断され、パレスチナ保健省からの医療機関紹介を受けて、ナブルス(西岸地区)のアル・タハッスーシ病院で手術を受けることになった。9月下旬、エレズ検問所でイスラエル当局の許可が下り、ファーティマはナブルスに行くことができた。しかし、アル・タハッスーシ病院では結局、必要な治療ができないことがわかり、ガザに送り戻されて、また新たな病院を探すことになった。適切な医療機関が見つかるのを待っている間にも、ファーティマの状態は悪化していった。病院が見つかったのは2カ月半たってからのことだった。

新たに紹介された病院は東エルサレムのマカセド病院だった。2007年も終わり近くになって、ようやく治療に行けることになったファーティマだが、出発するはずだった日、エレズ検問所が閉まっていたためにガザを出ることができなかった。検問所が開いた時点で、ファーティマは改めて東エルサレムに行く許可を申請した。しかし、今度は夫が同行することをシンベトが認めなかった。ファーティマは付添人を別の者にして、再度申請をしなければならなかった。こうして、予定より5日遅れてやっ
と、別の付添人とともにガザから東エルサレムに行くことができたのだが、マカセド病院で、必要な手術ができる設備が整っていないと告げられ、2日後にまたもガザに戻ることになった。そして、ガザに入る際に、エレズ検問所で地下の取調室に連れていかれ、5時間にわたってシンベトの尋問を受けた。次に紹介されたのはカイロ(エジプト)のマーヘド・ナセール病院だった。だが、今度もまた障害が立ちはだかった。付添人として義理の弟が同行することをシンベトが認めなかったのだ。ファー
ティマの病状は悪化する一方だった。

2008年1月、ファーティマはついにテルアビブ(イスラエル)のイキロフ病院で手術を受けられることになった。しかし、今度はアメリカのブッシュ大統領の来訪にぶつかり、大統領の訪問期間中、3日間にわたってエレズ検問所が閉鎖されたため、出国は延期になった。許可が下りたという知らせが届いたのは1月20日になってからだった。ファーティマは車椅子に乗り、呼吸さえままならない状態でエレズ検問所に着いた。ここで再度シンベトの尋問を受けた。今回も数時間に及ぶ尋問だった。取調官はファーティマに、出国は医療のためであって、それ以外の目的はないことを証明せよと要求した。結局、予定より10時間遅れて、ようやく病院に行くことを許され、その晩には入院することができたものの、すでに手遅れだった。翌1月21日に、ファーティマはテルアビブのイキロフ病院で亡くなった。

非常に印象的だった部分だけを引用したのだけど、必要な治療が受けられなくて死亡した人の話が原記事にはあと3人紹介されている。検問所を設置する側にも言い分があるのかもれないが、これは一体どうしたことだ。

ちなみに、こちらの記事「誰か聞いているのだろうか?断末魔の状態に置かれたガザ」http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/cp081128.htmlによると、

ガザに暮らすパレスチナの人々の上に降りかかる緩慢な死は、まず、イスラエルやアラブの病院で緊急治療を受ける必要がありながらガザから出ることを禁じられた重症患者400人を最初の標的とした。また、300種類の医薬品がひどく足りないために、病院で治療を拒否し家に送り返されている患者は数千人にのぼる。

ガザの病院は医薬品も設備もずいぶん前から手に入らないため、ようやくわずかな供給がガザに到達しても、パレスチナの人々の日々の需要最低限をすら満たすことができない状況になっている。同様に、ガザに運ばれるエネルギー燃料は、発電所を1日動かすのにようやく足りるか足りないかといった程度でしかない。

この、断片的にわずかな援助を与える政策は、イスラエル首相補佐ドヴ・ワイスグラスが2006年2月に唱えたものだった。彼は「パレスチナ人にちょっとダイエットさせようというわけだ。ただし、餓死しない程度に」と述べている。

ということだ。四人というのはあくまでも典型例にすぎない。

本当に、この台詞を口にしたくはないのだけど、この最後の発言は少数民族を徹底的に弾圧した、別な政府の高官を思い起させる。



で、侵攻が始まる。1000人以上の人が死に、6000人以上の人が負傷した。その大半が民間人だ。といっても殆ど実感はわかないから、どんなにものすごい状況だったのかについての記事をシリーズで。

一本め。

【ガザ攻撃】IDFによる一般家屋への砲撃で、3人の娘たちが殺された。父親はイスラエルで仕事をする医師だ。http://nofrills.seesaa.net/article/112928063.html

その医師、イゼルディーン・アブルアイシュさんは不妊治療専門の医師で、ガザだけでなく世界各国で治療や研究の実績を持つ、優秀な専門家だ。最近はガザに戻って、イスラエル国内のあちこち仕事をしていた。イスラエルで、しかも子どもを作る仕事をしているということで、パレスチナ社会での批判もあったようなのだが、それでも双方で働いていたということだ。この侵攻の最中、彼はヘブライ語が流暢なのでイスラエルのテレビに電話出演して、現地レポートみたいなことをやっていた*2。1月16日の放送中、電話に出た彼は今しがた起ったばかりの事件のことを語った。孫引きになるのだけど、元記事から引用させていただく。

「娘たちは、寝室で小さな声でおしゃべりをしていたんです」とアブルアイシュ医師は、声を詰まらせながら、電話で語った
「私はちょうど、一番下の息子を肩に乗せて、娘たちの寝室から出たところでした。そのとき、1発の砲弾が壁を突き抜けてきたんです」
「大急ぎで戻ると、娘たちの死体が――というより、娘たちの身体がばらばらになったものが――部屋中に。ひとりはまだ椅子に腰掛けた状態でしたが、両脚がなくなっていました」
「なぜ娘たちが死ななければならなかったのですか。誰ですか、うちに砲撃を命令したのは」
たかぶった感情に声が割れている。「ルーシー、あなたは私のことをよく知っているでしょう。うちにも来たでしょう、うちの病院にも。イスラエル人の患者さんにも会っているでしょう」
「双方の人たちを一緒にしようと、私はこんなにもつくしてきた。それなのに、その見返りはこれですか」

イスラエル軍が、全く無差別に攻撃をしていたことがよくわかる。16日といえば、もう侵攻作戦も終了間際だったはずなのだが。
それから何が起ったのかは、元記事読んでほしい。

ちなみに、その番組の動画がこちらにある。言葉は全然わからないし、映像も単調だが、緊迫感は伝わる。電話をしたキャスターはスタジオから走り出ていく。http://www.rue89japon.com/?p=1686

で、更にその話の後日談。

【ガザ攻撃】「あの人たちは、もうひとつの側の声など聞きたくないのですね」――娘を殺された医師の落胆http://nofrills.seesaa.net/article/112995793.html

おそらくテレビ局がお膳立てしたのだろう、アブルアイシュ医師は(たぶんイスラエルの病院で)記者会見を行なった。その場に出征兵士の母である女性が乱入してきて、彼を激しくののしったのだそうだ。ハマスを匿まっていたのではないか、敵であるお前が何を言うのか、という感じで。

その騒ぎの後、医師がぽつりと漏らした言葉が元記事のタイトルだ。何というか、本当に救いようがない。



経済的な格差、軍による締めつけ、大規模な直接的暴力、市民による敵視、パレスチナ人の置かれている状況というのは、ざっとこんな感じである。改めて言うまでもないのだが、一応確認。

*1:国際法的に認知されているわけではないが、事実上の世界支配者であるアメリカの承認を得ている

*2:パレスチナ人は一般にアラビア語を話すので、イスラエル人とは言葉が通じない