1. 村上春樹を理解してもガザの人々を救えるわけではない

システムということについて考えたい。

たとえば、ガザ侵攻の問題に深くコミットしている人たちが、村上春樹の作品を全く読まないまま、エルサレム賞のボイコットを呼びかけたり、それに賛同しない人たちを批判するということがあるとしよう。そのように極端に仮定してみよう。

ある作家やその愛読者の行動についての批判が、その作家の作品世界や思想の理解や充分な資料に基づく想像ぬきに行われるというのは、ちょっと奇妙な感じがする。でも、少し考えれば、おかしなことはどこにもない。なぜなら、これは本質的に政治システムのなかでどういう成果を上げるかという問題だからだ。

重要なのはイスラエルの行動を止めることで、そのための手段の一つとして(ボイコットという)村上春樹のパフォーマンスがある。そういうことなのだ。いくら本人やファンの心情を理解したとしてもガザの人々を救えるわけではない、これは基本的な事実だ。なら、そのために労力を費す必要はない。村上春樹を動員するために作品を理解しようとすることはあるかもしれないが、それは基本的に費用対効果の問題になる。

それを批判できるかと言えば、もちろんできない。人助けの手を休めて小説を読めなんていうことは、誰にもいえないだろう。誰かがイスラエル政府と闘わねばならず、そのアリーナの中では、文学的感受性などは何の役にも立たない。全ての力を動員しなければならないのだから、そうしたものは振り捨てなければならないのだ。
もちろん、そうしたくなければしなくてもいい。だが、たとえば美学的な好みのために特定の手段を使わないような政治システムの行為者は、そうしたことを厭わない競争相手に打ち負かされるだろう。そうしたことが嫌なら、競争に専心するしかない。そもそも、このゲームには人の命がかかっているのだから。

分業が進んだ社会において、それはやむを得ないことだ。我々は世界をいくつかのステージに分け、それぞれに別の基準を適用する。そしてそれらは混同されない。当然のことだ。入国管理官が美学的センスを発揮したり(美しい人にだけ査証を発行する)、裁判官がビジネスの論理を持ち込んだり(自分の儲けが最大になるように判決を下す)すれば、困ったことになる。
かつては全てに単一の基準を適用できる社会があったかもしれないが、今はそうではない。システムが分化していることと、システムどうしのコミュニケーションがないことは、我々の社会の基本的な成立要件である。

それはいい。だけど、それが全ではない。それが全てなら、村上春樹エルサレム賞をボイコットすべきだ、となって話は終る。でも、僕はそれに違和感をおぼえるのだ。そういうやり方だけが存在するのではないはずだ。