「プロ倫」とか、ウェーバーとか

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」がトンデモ本だという話が新書で出て、一部で話題になっているとのこと(こことか。大元の学術書は02年に出ているらしい。そういえばちょっと見た気が)。

まあ、僕は一応社会学をやっていることになっているので、ウェーバーさんとは少々お付き合いがあるし、プロ倫のレジュメを切ったこともある。なので、いや、そりゃそうでしょう。大体あれの価値は、とか言おうとしたら、fainalventさんという方がもうきっちり書かれているのだった。

プロ倫は実証的に見ればゴミですよ。その点ではレヴィストロースがトンデモさんというのとあまり変わらない。
 じゃなぜプロ倫かというと、人間行動における合目的性の概念にあって、それが理解社会学となるのだけど、この内面の「理解」を、いわゆる文学的な人間の内面ではなく、モデル的に、つまり理念型的に取り出したところがポイント。

まあ、正直、このへんが全てだと思う。実証的知見としてではなく、学説史・理論的マイルストーンとして重要なのだ*1

正直なところ、プロ倫を読んでいて「うーん何だかなあ」という感想を抱くのは誰でも一度は通る道で、それを含んで社会学だと考えて先へ進む、というのが殆どの研究者のやっていることではないか、と僕は思う。
そこで、「自分はこんな学問は嫌だ。こうはならない」と思うか、「オイシイとこだけ頂いちゃおう」と思うか、「ありがたい、ありがたい」と奉るか…。どれが正解ということもなく、どれが間違っているということもないだろう。ただ、日本では最後の部類に入る人がいささか多過ぎたということは確かで、そういう意味では批判にも意義があるとは思うけれども。

ただ、ひとつはっきり言えることは、ウェーバー社会学に残した最大の功績のひとつが「社会学の論考というのは、自分の営為を世の中に対して『思想』として示すことだ」というテーゼだということだろう*2。そういう意味でいえば、「誰それは知的に誠実でない」という結論は思想としていかにも小さい。というか、それを自覚しないでこういう本を書いているんだったら最低である。社会学者として仕事をするなら、間違いだと思うなら思うでなぜそれが生じたのか、なぜ問題化されなかったのかを社会的背景とともに論じ、かつその上で社会や学問に対する自らの思想を開陳すべきだろう。



…と思ったら、新書と学術書の著者は倫理学とか福祉学の人なのだった。おやまあ。


【追記】これに関してのわりとしっかりしたまとめのサイトがあった。一応。

*1:知見を発展させることは不可能ではないし、やってみている人もいるのだけど、まあそれはともかく。

*2:『』をつけたのは、ウェーバーがそういう言葉を使ったのではないから。一応念のため