選挙雑感

2021年10月31日、任期満了を受けての衆議院選挙は自民党のある程度の退潮という予想された結果と、維新の躍進と立憲民主の後退という一部でしか予想されていなかった結果をもたらすことになった。
ここから見えるのは、日本が新自由主義新保守主義に向けて舵を切ったという事実だ。ただし、これは世界的に見て、特異な現象でもなければ異様な状況でもない。ポピュリズムに支えられた新自由主義新保守主義勢力の台頭は、たとえば2017年にエマニュエル・マクロン共和国前進(党名)が左右の既存政党を一掃したフランスや、2019年に保守党のボリス・ジョンソンが地滑り的勝利を収めたイギリス、そして2016年にヒラリー・クリントンを破ったドナルド・トランプの大統領就任などでも見られた。
新自由主義とは、競争を原理とし、競争を妨害するような規制を排除することで経済の急激な成長を目指す国内政策であり、新自由主義とは、国際政治における「力の原理」を支持し、とりわけ経済的な競争(市場経済)以外の原理を掲げる国々を武力に訴えてでも排除してゆくという国際政策である。ブッシュJr.時代のアメリカのイラク侵攻(トランプの外交チームはブッシュ政権の引継ぎである)、イギリスのブレクジット、トランプ時代のアメリカの反・環境政策、フランスの国内改革などはそのようなものの代表だ。維新の経済、外交関係もそのようなものとして理解できる。日本は新自由主義新保守主義の勢力が中央政界に進出する前段階あたりにいると、大雑把には理解してよいだろう。
特に象徴的なのは大阪の状況で、もちろん、維新はそこで躍進したのだが、辻元清美尾辻かな子という、立憲民主党のリベラル勢力の中心的存在だった現職の女性議員が比例復活もならずに落選するという惨敗を喫した。このことは何を示唆するだろか。
大阪での維新の躍進は、おそらく次の四つの要因に支えられている。1.幹部層の頻繁なメディア露出、2.自民党時代からの事務組織および近年整備された地方議員ネットワーク、3.「変革による成長」という政策アピール、4.万博とIRによる公共投資という実利。
この中で、とりわけ3および4は立憲民主党左派や共産党などには全くないものだ。辻元も尾辻も、そうした主張はほとんどしていない。言い換えると、維新は成長戦略を訴えることによって勝利したのである。
成長戦略を訴えることが効果的なのは、社会が成長とは程遠い状況にあるからである。1990年代以降、00年代の若干の好転はあったものの、日本が常に経済的停滞のもとにあったことは今さら言うまでもない。
だが、その状況は日本だけのものではないし、1990年代以降だけにあるものでもない。近年の先進国の成長率は日本に比べればマシに見えるものの、せいぜい2-4%程度でしかないし、1970年代以降、日本を含めてそれ以前の経済成長を達成できた国はない。
というよりもむしろ、60年代までが異常だったのだ。この時代は、産業革命の頃から続く、農業社会から工業社会への変革と、それに伴う人口の増加が終わった時代である。言い換えると、それ以前の社会に見られた高度成長は、社会の根本的な変化に伴う現象なのだ。それはもちろん一時的な出来事であって、同じレベルの急激な変化が起き続けない限り、持続することはない。問題は、我々がこのあまりにも急激で、あまりにも長期にわたる激変期に慣れ過ぎたために、それを当然だと思い、それを前提にする社会・経済の制度を作り上げてしまったことにある。
新自由主義はこの二つの状況、すなわち、成長の条件が失われているという現実と、成長は持続するはずだ、持続してくれなければ困る、という幻想の間に成立する。
そこでは、「規制」という仮想敵が設定され、障害が取り除かれれば永続的な成長が可能であるという主張がされる。それは、かつての資本主義(自由主義経済)の、封建主義や共産主義との闘いとも重なるもので、きわめてわかりやすい。
問題は、新自由主義のこの主張が全くの幻想であることだ。経済に新しい要素が加わらない限り、社会が急激に成長することはありえない。規制を緩和するとは規制よって生じていた利益を他に付け替えることであり、それは移転にすぎない。新自由主義者はしばしば減税も主張するが、それは課税による分配を市場による分配に置き換えることでしかない。いずれの場合も、富が移動しているだけで、もしかしたらあるかもしれない効率化によるわずかなもの以外、成長につながる要素はない。
現実に目を向けてみれば、維新の成長戦略も、大阪市の資産の大阪府への移管(都構想)や民間への譲渡、万博に伴う公共投資、そしてIRによる外国人観光客の呼び込みからなっていて、特に新規な要素はない。他の野党がそのようなビジョンをもたないのは、それがうまく行くはずがないからだ。維新による「大胆な投資」は、右から左への移転にすぎず(あるいは、この場合は「左から右への」というべきだろうか)、一部の人だけを富ませ、社会全体には大きなマイナスをもたらす結果に終わるだろう。
問題は、日本全体がこの大規模なペテンに進んで引っかかろうとしていることだ。急激な成長という不可能な目標は捨て、充実した再分配政策に基づく、小規模だが持続可能な成長を目指す、というのが左派の主張だったのだが、今回の選挙でこれを主張した共産党立憲民主党は見事に敗北した。日本は、非現実的で無謀な賭けに乗り出そうとしているのである。
これは極端な考察だろうか。だが、全体の傾向がそちらを向いていることは明らかだ。たとえば、今夏の東京都議選では新自由主義的な傾向を持つ都民ファーストが事前の予測を覆して勝利した。兵庫県知事選挙でも維新の新人候補が圧勝した。自民党総裁選挙では、従来の保守派の立場から立候補した岸田氏が勝利したが、総裁就任後は新自由主義的な方向への路線修正を余儀なくされている。思い起こせば4年前にも、希望の党が(選挙直前に失速したとはいえ)センセーションを巻き起こしている。今回の選挙でも、立憲民主党や国民民主党に所属を変えた旧希望の党の党員たちが当選を重ねている。トレンドは明白になっている。他のあらゆる側面でそうであるのと同様に、社会経済体制においても、日本は一度設定された路線から離れられず、状況に柔軟に対応することができないのだ。
とはいえ、実際には新自由主義が勝利することはない。アメリカは4年でトランプを諦め、中道的なバイデンに鞍替えした。マクロンの与党はフランスの選挙で敗北を続けている。イギリスでは、ブレクジットが経済に悪影響を与えつつあり、連合王国の危機すらささやかれている(本稿ではあまり触れていないが、成長経済の環境負荷の大きさも、改めて問題化されている)。日本の新自由主義路線も、持続したとしてあと10年程度だろう。ただ、その弊害は極めて大きなものになろう。ただでさえ高齢化が進む日本には、大きな負担を抱える余裕はない。新自由主義を離れたのちも、弱者の切り捨てがやめられないことは明らかだ。かつての遺産は切り売りされ、おそらく海外に移転している。状況は極めて厳しいものになるだろう。2021年のこの選挙は、大阪の、ひいては日本の没落の本格的な始まりとして記憶されることになるかもしれない。