スポーツと政治

というわけで北京オリンピックねた。これは複雑だが、全く前例がないというわけではない。そのへんの話を少し(ミクシィ日記との重複は御免)。


第二次大戦中、オランダは隣国のドイツに占領されていた。捕虜を中心に多くの男性がドイツに連れさられて強制労働をさせられ、国王は海外に亡命し、国内にドイツ軍が居座り、ユダヤ系市民が次々に強制収容所に連行されていたのだ。今も続くオランダ人のドイツ嫌いはこの時に決定的になるのだが、意外にも市民生活のほうは普通に続いていた。スポーツも例外ではなく、サッカーもリーグ戦が行なわれていた。

なぜそんなことになったのか、というか、なぜそんなことができたのか。自身もオランダ育ちのユダヤ人であるサイモン・クーパーはこんなふうに書く。

 オランダ人はドイツに抗すべくもなかったし、もし集団で抵抗したりすれば、ユダヤ人と共に虐殺されていただろう。スポーツの世界では、プレイしつづけるしか合理的な選択肢はなかった。
 この理屈を他国の経験と比較してみよう。
(中略)
 ナチスノルウェーの公式なスポーツ大会をそれまでどおり続けさせようとした。誰も見に来なかった。四万人収容のオスロのウレヴァル・スタジアムで、戦時下のフットボール試合は、たいてい十人ほどの客の前でおこなわれた。1942年、ベルゲンで開かれた全国選手権の準決勝にはわずか27人の観客しか集まらなかった。やがて各地の売国奴たちにスポーツ観戦が義務づけられるようになった。
 だがしかし、スポーツを成り立たせること自体が参加者不足から難しくなってきた。バンディというアイス・ホッケーに似たスポーツは実質的に中断してしまった。1942年、スピードスケート全国選手権の年長者部門には選手が一人しか出場しなかった。海岸の町にあったフットボール・クラブには、近くの精神病院チームしか対戦相手がなかった。
 選手たちは体がなまらないように遠くの田舎町で「非合法」なイベントを催した。数十人が逮捕された。その中にはスキーの世界チャンピオン、ルート三兄弟もいた。中の一人ビルガーはある大会に出場するのは義務だ、とスポーツ界のナチ指導者に命じられ、こう答えたとされる。「スキーの大会に出るのが義務になる日が来るとしたら、その日、ぼくはスキー板を焼き捨てる」
 ドイツ人はスポーツ・ストライキにひどく不安になり、ヒムラーが視察にノルウェーを訪れたほどである。ノルウェー人のスポーツマンが大量にドイツの強制収容所に送られた。それでもスポーツ・ストライキは破れなかった。ストはノルウェー人に勇気を与え、ドイツの侵攻にほとんど気づかなかったような田舎の小さな村にまで抵抗を広げた。
(中略)
 スポーツ・ストライキはオランダではたどられなかった道である。

 第二次大戦世界大戦中ナチスに占領されてもスポーツをやめないというなら、いったいいつなら止めるんだろう?それが非合法新聞『ヘット・パトロール』の問いかけだった。1941年の秋、あるスポーツ雑誌が追放されたユダヤ人のかわりに審判に応募するよう読者に促し、さもなくばリーグ戦が中断されてしまうかもしれない、と記したときに、『ヘット・パトロール』は激怒した。
(中略)
 『ヘット・パトロール』はリーグ戦を中止するように求めた。そんなことにはならなかった。オランダ・プロテスタント・バスケットボール連盟は1941年のシーズンには「昨今の情勢に鑑み」一試合もおこなわないことを決めた。だがオランダのフットボール界には、ユダヤ人たちの運命を前にして、これまでやってきたことをただくりかえすような真似はできない、と思った者はただの一人もいないようだった。発明されて間がないフットボールは、飲み食いやセックスのような、基本的な生理的欲求になったようにも見える。オランダ人はたかだかジェノサイドくらいでそれを諦める気はなかった。
(中略)
 オランダ人の一般的態度をもっともよくとらえているのは、ユダヤ人作家アベル・ヘルツベクが戦後に語った逸話である。「オリンピアプレインも、ラツィア(手入れ)のあいだ、集結場所になっていた。いい天気だったのでグラウンドではテニスをしている人がいた。移送を待っているユダヤ人たちは、ボールが地面に跳ねる音、テニスをやっている人たちが呼びかわす声を聞いていた。『レディー、ゲーム、デュース』ナチの連中[NSB]じゃなかった。レジスタンスでもなかった。それがオランダの多数派の人たちだ」

1938年の「水晶の夜」におけるユダヤ人虐殺から数週間後、オランダ国内が親善試合のためのドイツ代表のロッテルダム訪問を認めるべきかどうかで議論になっていたとき、オランダ人ダイヤモンド磨き工にとってのモーゼであるアンリ・ポラックは、同胞たるフットボール・ファンが言うだろう内容を推測した。「スポーツはスポーツ。ユダヤ人の虐殺はユダヤ人の虐殺だ」

以上、サイモン・クーパーアヤックスの戦争―第二次世界大戦と欧州サッカー』より。


クーパーの著書はいかにも現代ジャーナリズム的なことに、多面的かつ個人的な語り方になっていて安直な読みを許さないのだが、少なくともここに紹介した部分での主張ははっきりしている。つまり、「政治とスポーツは別ものだ」というそれ自体は美しい信念も、延長していくとおかしなことになる場合があるということだ。こんな時にスポーツを楽しめるなんてどういう神経なんだろう、と誰でも思う。おそらく、チベットのラサでも、そう思っている人がいるだろう。


いうまでもないことだが、ここで批判されるオランダ人の立場、言い方は、ボイコットを否定するオリンピック関係者の台詞と似ている。彼らを批判するのはたやすい。実際、「あなたの世界記録は、チベットの自由より重要なのですか」と言われて、「はい」と返せる人はなかなかいないだろう。

だが、それで良しとすることもまた困難だ。一度ボイコットしてしまえば、際限なくことは続く。地上に政治問題が尽きることはあるまい。ソルトレイクシティの時は開催国が戦争をしていたが、特にそれを気に止める人はいなかった(ように見える)。しかも、オリンピックは(一度も実現していないとはいえ)政治的休戦を理念とするのではなかったか。

我々の生活は、その全ての面が政治とつながっている。抵抗することが政治的選択なら、抵抗しないことも政治的選択だ。スポーツと政治を結びつけることも、切り離すことも政治的な選択なのだ。 そういう思いテーマを、今回、僕らはつきつけられている。正直、気が重い。