東海テレビの「戦争を、考えつづける。」は問題がある

東海テレビの公共キャンペーンスポット「戦争を、考えつづける。」がウェブで公開されていたので見た(https://www.youtube.com/watch?v=DD8qAaZlGEY&feature=youtu.be)。非常に問題のある部分が含まれていると思う。

問題だと思ったのは、公開されているものでは2分33秒くらいから3分12秒くらいまでの、在特会兵庫支部の街宣とそれへのカウンターについて取り上げた部分だ(およそ40秒の長さのこの部分は、冒頭と最後に挿入されているクレジットからして独立したスポット番組として放送された可能性もある。そこで、以下ではこの部分を「番組」と呼ぶ)。

この番組は、人種差別街宣とそれへのカウンターを「憎しみのぶつけ合い」と表現する。しかも、その主張のバックに、偏見や差別を阻止しようというカウンター側のメッセージを使っている。もし、そこで行われていることが何であるかを多少なりとも知ろうとしたとすれば、あれらのメッセージが「憎しみをぶつける」ようなことではないことは理解できるはずだ。

この番組の制作過程では、差別者の行動を相当詳しく取材しているようだ。かなり近くからのショットがあるし、レポーター(ないしはその役を務める出演者)が街宣を終えた差別者の至近距離に寄っていくシーンもある。彼らの主張が耳に入らなかったはずはない。東海テレビは、その主張に問題があると思わなかったのだろうか?それを聞いてなお、彼らが唾棄すべき反社会的存在ではなく正当な主張をする市民だと思ったというのなら、その倫理観には相当な歪みがある。

もちろん報道は時として醜悪なものをも映し出さねばならない。差別者の存在を避けて通れないこともあるだろう。だが、あのエピソードを扱って「報道番組」として成立させようとしたというのなら、あのような激しい路上での対立(人と人が相対しているのだから対立には違いない)を「取材」しなかったのか。「なぜそのように激しくなるのですか?」とあなた方は聞いたか。それを嘆くというのなら、そうでなくする方法を真剣に考えたのか。そうした模索や葛藤が番組に一切反映されないのはなぜか。

つまるところ、あなた方には真剣にヘイトスピーチ問題を取り上げる気などなかったのではないのか。単純に、わかりやすい、しかも安全に取材できる「争いの絵」として、差別街宣とカウンターの現場を使いたかっただけではないのか。

それが悪いのか、とあなた方は言うかもしれない。我々は「現実」を切り取って見せているのだ。判断するのは視聴者だ、と。

ならば、お教えしておこう。あなた方が何気なく「背景」として使った人々の中には、自分自身と、血縁者に対する侮辱に耐えかねてカウンターに立っている人がいる。小学生への危害への怒りをエネルギーに変えて、慣れぬ路上に立っている人がいる。週6日間働いて、わずか一日だけの休日をカウンターにあてている人がいる。カウンターのあと、心に受けた傷のために嘔吐してしまう人がいる。何十年も続いた闘いのあと、休息を拒否して差別との戦いを続けている人がいる。幾度も官憲の介入を受け、処罰を受けてもなお闘いを止めない人がいる。その人々を、その思いを、あなた方はまったく知ろうともせず、受け止めることもなく、ただ「憎しみ」と呼び、あまつさえその最悪の敵と同一視したのだ。

あやまちは誰もある。それを正す機会を奪うつもりもない。僕が絶対正しいわけでもない。だが、東海テレビよ、あなた方がなにをしたのか、もう一度じっくり考えてほしい。そして、あなたたちにしかできない反省と、前進をしてほしい。