7. 個人の側につく

これで終り、とか言っておきながら、昨日はぜんぜん終らなかった。まあ、もうちょっと。

ところで、まだエルサレム・ポストをチェックしている人はいるのだろうか?昨日の電子版の記事のひとつは、イスラエル空軍機がガザのエジプト国境近くにあるハマスの基地とトンネルを爆撃したというものだ。犠牲者は報告されていないが、敷地内にあったモスクが破壊された。何時間かあとには、ガザからロケットがイスラエルに向けて発射されている(こちらも犠牲者は報告されていない。幸いなことに)。

何も解決したわけではない

村上春樹の演説は素晴しかったが、あれで何かが解決されたわけでは全くない。それはちゃんと確認しておかなければならないことなのだ思う。いちおう大規模なイスラエル軍の行動は終ったものの、封鎖解除はまったくなされていないし、エルサレム賞ボイコットの呼びかけを批判的に紹介するイスラエルの新聞の記事は、パレスチナ人へのヘイトスピーチであふれている*1。ガザの人々の苦悩は終っていないし、来月にまた大規模な軍事行動があり、何百人もの人が犠牲になったとしてもすこしの不思議もない。だから、問題はこの先にどうするかということだ。

ただ、そのことを考えると頭が混乱してくることも確かだ。壁とタマゴではタマゴの側につく、という言葉に感動するのは簡単だ。だが、いつ、何が壁なのか、というのはすぐに決められる問題ではない。
たとえば、パレスチナの人々の生活を再建するためには1948年以前の状態に戻さなければならない、というのはパレスチナ側にコミットしている人にかなり共通する主張で、僕も基本的にはそう思う。このとき、我々はパレスチナの人々の生活の側についている。
だが、仮にその主張が通ったとして、現在その土地に住んでいるイスラエル人の生活はどうなるのか。彼らは他所に行けばいいのか。きれいごとで済むわけはない。そこで血が流される前に我々は手を引くからいいのか。あるいはそんな遠い未来のことを想像するのは馬鹿げたことか。しかし、たとえば19世紀にヨーロッパでユダヤ人国家の建設に賛成した人々のことがある。我々は今日、彼らをオリエンタリスト等々だとし批判するし、それは正当だが、彼らは基本的に善意の人ではなかったか。彼らは無知ゆえに免罪されるとしよう。だが、先例を知り、開化され、情報にも通じている我々はどうなのか。
あるいはイスラエルに住む村上春樹の読者たち。僕はその人たちがどんな人なのか知らないけれども、全面的に政府を支持していない人たちだとは信じがたい。そもそも国民皆兵なのだから、力の行使にかかわったという人も多いはずだ。人間は愛するけど、パレスチナ人は例外だ、という人もいるだろう。その人たちはシステムに魂を売ったゾンビだから計算に入れなくていいのか。
シオニズムが悪いのだ、と言うことは簡単だ。多くの善意の人はシステムに利用されている。だが、それはハマスが悪魔だ、という言い方と同じだ。何の解決にもならない。
ごく少数の例外を除けば、本質的に非人間的なシステム、というのは存在しないのだと僕は思う。なぜなら、つまるところシステムを構成するのは人間だからだ。人々の意思だからだ。それが合成されて、一個人に対するときに非人間的に見える、ということにすぎない。

ならば、それを構成する人間たちを個人の場に連れ出そう、というのが村上春樹のいう小説の戦略で、それはそれで悪いことはない*2。だが、それで答が出たわけではない、というのは理解しておくべきだろう。なぜなら、それなら僕たちは個人的な関係を通じてしかコミットできないことになり、つまるところ僕を含めた多くの人はパレスチナ人やイスラエル人の友人やパレスチナ問題にコミットしている友人を持ってはいないのだから、要するにそれは無関心と不関与の免罪符を受け取っただけのことだからだ。

肯定的に考えてみる

このようにして、僕らはデッドロックにぶちあたる。一方で絶対にシステムに関与したくなく個人の側に立ちたいのだが、システムを構成するのは個人なのだから、その境界は極めて曖昧である。では徹底的に個人として関わればよいのかというと、そういうチャンネルは普通ない。なぜなら、我々が住んでいる世界そのものがシステムだからだ。僕らはみなタマゴだが、同時にみな壁でもある。では、どうするのか。

試しに、視点を変えてみてはどうか。

パレスチナ問題は、まずイスラエルが考えを変えなければ解決しないことは明らかだ。彼らはユダヤ人だけの国家をつくりたく、いや大勢の人はそこまでぶっそうなことは考えていないかもしれないが、自爆攻撃やロケット攻撃をかけてくる上に色々と面倒くさいパレスチナの連中にどっかに行ってほしいと考えていることは確かだ。しかし、現実にはそんな便利な場所が確保できるわけではないし、パレスチナ人がその案に同意するわけもないので、非人道的なことがおこなわれる。とはいえ、イスラエルの人はそれはそもそもパレスチナ側の非妥協的な態度が問題だ、と言うだろうし、パレスチナの側にも妥協できない切羽詰った理由がいろいろとある。それをどうにかしようと考えるから、強制というようなことになるわけだ。

ならば、「変えさせなければならない」という考えそのものを変えてみてはどうか。
考えというのは、当事者が変えるものなのだ。外部から変えさせることは可能だが、そういうことはしないほうが話が簡単になるのではないかと思う。もちろん、何もしないということではなく、考えを変えやすいように支援していくことだ。否定的になにかをさせなくするのではなく、何かをさせるための肯定的なアプローチ。

そのひとつはナラティヴだ。イスラエルの人と、パレスチナの人に自分たちの物語をたくさん紡いでもらう。そして、僕らがそれを読む。読むというのはもちろん、読者がいなければ誰も何も書きようがないからだ。特にフィードバックとか相互交流とかがなくても、それによって必ず何かが起るはずだと僕は思う。
本を買うとか、ブログを読むとか、あるいはさまざまな翻訳とか、いろいろと方法はありえるはずだ。もちろん、映画やビデオ、テレビについても色々とありえる。僕らが求めていけば、商業ベースでの可能性も広がってくるはずだ。

もうひとつは、徹底的に味方になることだ。パレスチナの人とイスラエルの人の共通点は(いくつもあると思うのだが、そのひとつは)孤立感である。どこにも味方がいない、全く理解されない、というコメントをイスラエル側、パレスチナ側の双方でかなり見かけた。そういう状態にあるときに考えを平和的な方向に変えるというのはかなり難しいことなのではないかと思う。
だから、徹底的に支援していくというのもひとつの考え方なのではないかと思う。遠い未来のことはともかく、直近の目標に向けて。たとえばパレスチナだったら、とりあえず援助をもとにガザと西岸での生活が立ち行くようにし、やがて農産物や軽工業品の輸出ができる状態に持っていきたいはずだ。あるいはイスラエルは農業とハイテク産業、観光業の振興を考えている。ならば、それを支援すればよいのではないかと思う。政府に働きかけるとか、製品をみつけたら積極的に買うとか、行けるようならば旅行するとか、そういったようなことだ。文化的な交流をするのもいい。パレスチナへの物資、人間の出入りはイスラエルの妨害を受けているのでそこは何とかしなければいけないが、そういうことも含めて。

僕らにできるのはまずそんなところではないのかな、と僕は思っている。外部から解決しようとするには事態はあまりにも複雑だし、個人的に関わるには中東はあらゆる意味であまりにも遠い。でも、ものを読んだり買ったりすることはできる。ボイコットではなく、その逆の方向で。
それはあまりにもナイーブだという批判はあるだろう。イスラエルに支援したりすれば、その金がガザ落す爆弾や核兵器の維持管理や、隔離壁の建設に使われることになる。パレスチナの政府高官は援助金を横領しているし、善意の寄付が自爆テロや不寛容な宗教教育に使われる。だが、それが何だというのだ。どの道イスラエルは他の予算を削ってでも軍事費を増強するだろうし、援助が増えれば一般のパレスチナ人に渡るお金も増える。壁の間を縫って走るパレスチナのハイウェイ網の建設だってできるかもしれない。マイナスのことをやってもあまり進展しなかったのだから、逆のことを考えても悪くはないだろう。
そして何より、個人の敵にならない方法はそれしかないという気が、僕にはする。

とりあえず、本当に少しだけど本は注文してみた。あと、買い物の時にでもパレスチナとかイスラエルとかいう文字が目に入ったら*3優先的に買ってみようかと、そんなことを考えている。

*1:正確には記事のコメント欄だが。

*2:もちろん、国威発揚小説、という特殊なジャンルのことを忘れるべきではないのだが、それはともかく。

*3:パレスチナのオリーブオイルを愛用していたのだが、最近は手に入らなくなった。イスラエルに輸出を禁止されたのだろうか。