文楽みてきた

(11月10日に大阪の国立文楽劇場大阪市立でないことは強調しておきたい)で、「仮名手本忠臣蔵」を見たときの感想。フェイスブックに書いていたのだけど、こちらにも転載)

昨日の文楽でとても印象に残ったのは、「嘘のつき方」の細やかさだ。

文楽はもちろん、人間が人形を操り(また別な一人の人間が全てのセリフを発声して)表現しているわけで、おかげで僕らは極限的な状況設定や、極端なキャラクターにも抵抗感を抱かずに「お話し」として楽しむことができる(そして、その中からリアルライフについての深い洞察も得られるわけだ)。

だけど、その人形たちの世界を「リアル」にする工夫を、文楽は怠っていない。たとえば、夜に外で文を読むシーンではちゃんとロウソクで手元を照らす芝居をする。あるいは、見せ終わった書類を片付ける、というシーンでは(実際には人形遣いの人が持って動かしているのだが)かならず人形がそれを持って脇に置く、という芝居をきっちりとする。そうすることによって「これは真剣に見ることになってるんですよ」というメッセージを発しているのだ。

それによって、僕らは安心して懐疑を停止して、舞台に没入することができる。最初に「これはフィクションであり、リアルと離れていることは問題ではない」というメッセージがあり、次に「これは真剣に信じることになっている嘘である」というメッセージがあるわけだ。

ちなみに、この二つの記号は奇妙な形で混信することがあり、僕は何度か顔出しをしている人形遣いの人をみて「あれ?この大きな人たちは、ここで何をやってるんだろう?」と感じる、という不思議な経験をした。人形のサイズに合わせてつくられたセットからすると人形遣いの人はあきらかに巨人で、次第にそっちの方がおかしく見えてくるのだ。

キャラクターに発声させず、「外からの声」に会話、内話、作者の声を全部やらせる、というのはたとえばギリシャの古典劇のコロスなんかがそれだと思うのだが、ああいうのは「演劇とは何であるか」ということについて、本質的な何かを表現していると思う。文楽の場合は、それに加えて人形であるということで、更に念には念を入れているわけだ。

もっとも、ギリシャ古典劇の場合は人間が操り人形のようにふるまうということで「うそっこ」であることがさらにわかりやすくなっていると言えなくもないわけで、その意味では、比較的近年に始まったといわれる人形遣いの顔出しは、文楽におけるそちら方面へのフォローであるといえなくもない。いずれにしても、重層的に記号が飛び交う、大変興味深い場であることは間違いないと思った。



ところで、比較的近年に…ということでもう一つ気になったのは台詞(というか浄瑠璃語り)である。文楽の言葉は、基本的に大変分かりやすい。台詞」に相当するところには底本では意味が分かりにくい所があるが(でも人形の動きをみると大体わかる)、「地の文」はほぼ聞いただけでわかる。というか、史料を(活字でだが)読んでいる経験からすると、これは「わかりやすすぎる」。江戸時代の文章があんなにすっと入ってくるというのは信じられないのだが、あれは本当にオリジナルのままなのだろうか。僕なんかはつい、明治以降に改訂されたりしてるんじゃない?とか思ってしまうのだが。

(後日付記: ツイッターで上記のようなことを書いていたら、狂言をよく見ておられる方から、「口語だと江戸時代のものでも、かなりわかりやすいですよ」という意味のことを教えていただいた。どうやら、史料は全部文語なので勘違いをしていたみたいだ。あれはオリジナルだと思います。すみません)