自然な生き方って

人間がその周囲にある資源から食料を得る方法は色々あり、多分、狩猟・採集→農業→機械化農業の順にその効率は大きくなる。ということは、単位面積あたりの生存可能人口というのを計算できるはずで、更に循環・再生産可能性を計算に入れれば持続可能な人口とテクノロジー水準を確定することができるだろう。というあたりのことは誰でも思いつく。専門的な学問というのも、おおもとでは素人の発想と大差はなく、大雑把にだが人口容量という経済学・人口学の概念はこの発想に近い。

しかし、ここから先を精緻に詰めていくのが素人とプロの違いである、というのを数年前、このへんの文献を調べている時に知った。ことはそう簡単ではないのである。


まず第一に、食生活の様式の問題がある。生存に必要なのは何カロリー、と言ってしまえば事は簡単だが、果たしてそれは動物性タンパクなのか、植物性タンパクなのか。糖質、脂質はどこから得るのか。その他の必須栄養素についてはどうか。人々は何を食べてどういう身体・生活を作りたいと考えているのか。普通、これは所与の歴史的・文化的条件によって決まるわけなのだが、ゼロベースで計算したい場合にはそういうわけにもいかない。


第二に、生活水準の問題。最低限保温に必要なものだけを纏い、食料や子孫の生産という労働は一部の人に任せて、あとの人はエネルギー消費を最小化するために狭いスペースにじっと寝て過す、というやり方を使うと相当沢山の人を生きさせることができる(寝床を平面的に並べると食料生産に使える面積が減るので、縦に積み上げるのがベスト)。とはいえ、多くの人はあきらかにそういう生き方を望まないだろう(もちろん、ネットもテレビも厳禁だ)。
では妥当な生活水準を仮定してとなるが、そんなことができるなら苦労はない。


第三、閉鎖系の過程。「外部から投入されるのは太陽光だけ」と人はしばしば言いたがる。太陽も有限な資源であることはいうまでもないのだが、それはともかくとして(というか、太陽光を節約できるとは思えない)。しかし、例えば回遊魚とか渡り鳥、移動する草食獣などを利用する場合、その地域は既に閉鎖系ではない。交易の要素が入ればことは更にややこしくなるし、「全体としてのシステム」を考えた場合でも内部での輸送コストを計算に入れなければならないのだから話は本質的に同じである。もちろん、系ということを考えると話は更に複雑になる。海から塩を取るのは良くて、地下から石油を掘り出すのはなぜ駄目なのか。直感的に言えることはあるが(この前提は重要)、ロジックに乗せるのは容易ではない。



というわけで、「エコロジーに即した生き方」というのを学術的に決めるのはなかなか容易ではないと思う。もちろん、これは一般に「エコ」と言われているものの否定ではない。
「エコ」を真剣に実践している人を見るとわかるが、彼等はこういう問題をいわば「生活の文脈に即して」解決しているのだ。でなければ生活していけるわけはなく、そこに生活者としての実践の強みがある。計算式をひねくりまわしてブツブツ言い、挙句何もしない奴(僕のことだ)より、そのほうが何百倍もましであることは議論の余地がない。

ただ、いや、この続きはまた気が向いた時で。