理由はないんだと思う

これ↓に答えるとはてな左翼ということになるのだろうか、とおののきつつ。
はてサの皆様に質問がございます。http://anond.hatelabo.jp/20090107103438

皆様なりの思うところがあり、弱者保護の拡充、体制の変革を求めていらっしゃるのでしょう。

では、その理由はなんですか?

私の無知蒙昧な頭ではその理由を明確に説明することが困難なのです。


「なんか、死んじゃいそうでかわいそうだから」

それだけ。他に人助けに理由なんかない。理由が必要なのは、むしろ「助けないこと」のほうだろう。こうやって問いを逆転させると、話は一気に単純になる。この単純さを受け入れないというのはどちらかと言うと衒学的な「偽悪」だと僕は思う。ただ、議論につきあうと話はそれなりに長くなる。なので詳しくは下記を参照されたい。


私的所有論

私的所有論


で終っちゃうと話が簡単で良いんだけど、多分だめだと思う。なので、もうちょっと、アイデアを借りながら書いておこうかと。(長文注意。要点をまとめた簡略版はこちら。)



この本で、立岩は基本的に障害者の問題をテーマにしている。だが、今の状況にもそのアイデアは十分流用可能だ。たとえば、上のリンク先の記事は次のように言う。

よく、ネット右翼の皆様は弱者救済を自己責任論で完結させようとしていらっしゃいます。

この辺の理屈は非常に単純明快でわかりやすいものがございます。

おそらく、私が愚考いたしますに、「俺ら頑張ってきたんだから楽するなんて許さないよ」という心境がございますのでしょう。

皆様は大変努力なされてきたのでしょう。一学生の私はただただ敬服するばかりです。

私にはその考えはとても理解しやすいものです。

上記の筆者は修辞でなく、単純に自己責任論をわかりやすいものとして扱う。自分の努力の成果は自分のものであり、それを努力しない他人にわける必要はない。だが、本当にそうか。立岩の議論はそこから始まる。

何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答なのだが、この答はどんな答なのか。つまり私はこの本で「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。(pii)

あるものが私的所有のもとに置かれるとき、その根拠として示されるのはどんなことか。
その論理を徹底的に検討し、いわば脱構築して立岩が指摘するのは、上述の匿名の筆者が主張するわかりやすい論理、すなわち努力の結果が所有である、というものである。私がこれを作った、だからその結果は私のものだ、というのだ。

だが、この話には根拠がない。なぜなら、生産や制御の根拠となる因果関係には限界がないからだ。私がこれを作ったかもしれないが、その作業を行った私の身体は私が作ったものではないし、生産物の原料や素材も私が作ったものではない。遡ろうと思えばどこまでも遡れる。それを私的所有の根拠とするのは、恣意的な打ち切りの結果でしかない。

この主張は、それ自体で完結する一つの主張・信念としてしか存在することができない。「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。(p36)


だが、それがそのようなものとして強力に主張されるのはそれなりの理由があるからではないのか。以下、立岩は考えられる理由を延々と検討する。それを一々書くと大変なことになるのでしないが、一般に私的所有を支持すると考えられる論理、「当事者にとって有利である」「生産性を向上させる」「資源の責任ある管理をもたらす(共有地の悲劇)」といったものがそれ自体として根拠になり得ないということが示される。これらの議論は次のようにまとめられる。

私の作ったものは私のものであるという言明は、まず一つの信念として存在し、その理由は何かと問われるとそれ以上言うことがない。何か言おうとするなら、その効果・意義を問うことになる。限定された範囲、私(だけ)が行い私(だけ)が作ることができるものについては、私的所有の有効性を言うことはたしかにできた。しかし(私が作った、あるいは与えられた)私の能力(資源)の移動可能性を前提するなら、今度はそれを私のもとに置くことが正当化されない。
例えば身体の自己所有は正当化されない。自由主義者の呑気さはこのことを考えないことにある。私の身体は私のものだという命題をそのまま前提として認めるなら、その後は市場主義者の言う通りである。だが、その前提をさらに根拠づけようとする時に、それを根拠づけるものは何もない。身体は自己のものだと言えないのである。(pp.55-56)


では、私のものは何もなく、ゆえに全てが共有され、平等に配分されるべきだという話になるのか。もちろんそうではない。そんなに単純な話ではない。何故なら、そういう考えは我々の直感に反するからである。たとえば、

一人の健康人の臓器を、生存のために移植を必須とする二人の患者に移植すると、一人多くの人が生きられる。一人から一人の場合でも、助かる人と助からない人の数は同じである。しかしこの移植は認められないだろう。なぜか。その臓器がその人のものだからか。(pi)

というような問題が提示される。

我々はこの大胆な生体臓器移植を認めないだろう(生きている健康な人から心臓を取り出して、ある人に移植し、肝臓を別な人に移植して一人の犠牲で二人を生かす!)。おそらく、リンク先の筆者も認めないはずだ。

「死んでしまうじゃないか。可哀想じゃないか」と。


それは理屈ではない。理屈であれば一人殺して二人を生かしたほうがよい。だが、我々はそれを容認しない。身体の私的所有を認める。それはなぜかと言えば、他者の存在をみだりに否定したくない、他者の領域を侵したくない、という感覚があるからではないか、と立岩は言うのだ。ならば、それが身体から少し延長されていけない理由は何もない。我々は他者の生きる権利を認める。そして、自分の存在を否定されない範囲で、他者が生き続けるための手助けをする。そしてその話は自分のものを自分のものとする、という話とつながる。なぜなら、私的所有は他者の「他者を尊重する」という感覚によってしか裏付けられないからだ。

もちろん、それは理屈ではない。理詰めでいくとある所で議論は霧散し、奇妙な世界に連れていかれてしまう。そしてまたもちろん、それは「自分が助かりたければ人を助けなさい」という教訓物語でもない。ある所で議論を打ち止めにしたところで、別に誰にも怒られないからだ。
ただ、もし、ロジックを辿ることが好きなのなら、自分のものを自分のものとするということと、他者の存在を助けるということとは繋ってしまうことを発見するとになる、という話なのだ。そしてそれがわかると、「助けないのは、自分がやりたくないからだ」という身も蓋もない事実がわかってしまう。


だから、多分「根拠はないのだ」というふうに考えておいたほうがよいのだと思う。可哀想だと思う人が助ける。そう思わない人は助けに行かない。それだけで完結してよいのではないのか?