「ガザ」についてのエッセイ

リンクを辿っていて、ちょっと興味深いエッセイを見付けた。原文は09年1月7日にロスアンジェルス・タイムズに掲載された英文なので、ほとんどの人には読めると思うのだけど、時間がかかる…ということで忌避する人がいるかもしれない。版権の問題などがあるのはわかっているのだけど、どうしても、と思うので超訳。たぶんミスだらけです。あらかじめごめんなさい。直すべき点はお教えください。

中東の「均衡化(proportionality)」 エドガー・ケレット


【テルアビブ発】12月27日にイスラエルがガザを空爆して何百人ものパレスチナ人を殺害しはじめてからというもの(犠牲者は初日だけで200人を越えたと伝えられる)、メディアで最も多く使われる言葉は「均衡」というものになった。


 いったい何発の爆弾を落とせばいいのだろう?これが問いである。イスラエル南部の入植地や町に向けて発射されたミサイル(先月までに数百発に逹する)への応答として、イスラエルは何発の爆弾をガザに投下すればよいのか。そして、均衡のための応答ができたと考えられるまでに、何人のパレスチナ人が殺されることになるのだろうか?


 均衡達成のための討論には、冷却効果のようなものがある。それは不安や痛み、そして人生といったような計測不能な変数を引き受け、一見客観的な等式へと代入しようとする。これはニュートンの法則や熱力学の第二法則のように、アプリオリ自然法則である。つまり、一方の側にあるイスラエル南部の入植地における損害や犠牲と、ガザ側での適切な数の死体製造−たとえば、23.5人といったような−が等式化されるのだ(0.5というのは、多分、とりわけ深刻な重傷者か高齢者や幼児の死者のことだろう)。


 はっきりさせておきたいのだが、私は均衡性原理の論理と、その背後にある肯定的で真摯な願望に反対するつもりは全くない。苛酷で非合理な中東紛争に理性的な基準を導入しようという思想こそ、我々が放り込まれた、この歪められた現実をクリアにするために必要とされるものだ。もちろんそれはこの正常でも普通でも本質的に理解可能でもないものごとを、正常化しようとする絶望的な試みの一部にしかならないだろうが。


 だが、中東を60年以上にわたって支配してきた憎悪と恐怖に、その論理が強制的にあてはめられると考えてみよう。両陣営は何かを等式化するためにつくられた、ひとつの基準に同意できるのだろうか?


 Sderotでロケット攻撃にさらされているイスラエルの右翼に聞けば、彼ら自身の均衡の説明が返ってくるだろう。ハマスは殺せる限りのイスラエル人を殺そうとする。兵士、民間人、男性、女性、子ども、その他の区別などお構いなしに。「この」均衡のためには、我々はできるだけ多くのガザ人を殺さねばならない。イスラエルが最新の軍備や、ガザにいる人々を何千人も殺せる能力を持っているという事実は、この均衡方程式の一部とされてはならない。結局のところ、パレスチナ人たちは我々のほうが強く良く武装していることを知っていても、ここ数年、毎日にように我々の南部の入植地にロケットを射ち込むのをやめなかったのだから。彼らは殺せる限り、我々を殺し続けようとしてきた。今度は我々が均衡化するばんだ。彼らを殺す時が来たのだ。


 一方、ガザのパレスチナ人は、この地で六ヶ月の間有効だった停戦をイスラエルとエジプトが更新しようと努力しているときに、ハマスがロケット攻撃を続けている理由を説明するだろう。それはハマスが正に、他の、異った、しかし他ならぬ均衡の原則を維持しようとしたからなのだ。ガザが孤立させられ、イスラエル国防軍が国境の検問所を支配して我々の同胞を苦しめたのだ。だからガザは同じ苦しみをイスラエル側に与えねばならない。ガザ住民の状況が悪くなったなら、イスラエル南部市民の状況が同様に悪くならない限り、均衡の原則は侵害されている。そして、この理由によりハマスはSderotほかの場所にロケットを発射しつづけるのだ、と。


 そんなことはない、とイスラエルの右翼は論じるだろう。均衡性原理を保つためにガザに効果的な封鎖が課される。2年以上もガザで捕われているイスラエル兵、Gilad Shalitが、ジュネーブ条約に規定された基本的権利なしに捕虜にされている間は、均衡的な度合いの自由と移動の制限が彼を捕えた体制に課されるべきなのだ。


 いや、あなたは間違っている。ガザは釣り合いなのだ。Shalitは、イスラエル領とここに囚われている何百人ものハマス抑留者との均衡が取れるまで、釈放されることはないだろう。


 結局、次のようになる。均衡性の議論は客観的な基準を提出するのだが、その状況は本質的に主観的に認識されるものなのだ。しかも、状況のなかでは二つの矛盾する物語が衝突しており、双方とも相手方やその苦痛を話に含める用意はないのである。


 均衡性原理のなかに、殺人の類いを理性的に正当化できるようなものがあるだろうか?


 復讐とは、我々に愛するものを殺した奴らを殺そうとさせる動機のことだ。だが、それは不合理なものなのだ。たとえ、それを合理的なパッケージに包みこもうとする場合でも。


 我々は厳正なる報復を行うが、それは我々が憎悪し傷ついているからで、数学と論理に優れているからではない。ガザ空爆の初期に、同じ家族の5人の少女が殺された。ここ数年の間に、もっと多くの子どもたちが双方で死んでいる。彼らの死を正当化し、理解できるものとするよう、その遺体を方程式に代入する試みが行なわれた。それはまた現在の出来事に影響を与えるために必要とされたのだろう。だが、それはまだ怒りをかきたてるものであり続けている。


 私が心から受け入れられる唯一の等式は、双方が等式に入れるひとつの遺体もないことを主張するというものだ。その時が来るまで、私の異議や抗議は心の中だけのものにしておくだろう。私の主張は、もっと良い時代が来るまで、胸に秘めておくべきだろう。



エトガー・ケレットは作家で、最近の著作には「The Girl on the Fridge and Other Stories」がある。
ヘブライ語翻訳:Anthony Berris

Los Angels Times January 7, 2009


最後のところでおわかりのように、この人はイスラエル人の作家だ。
二回の翻訳のせいで(日本語訳が特にまずい)わかりにくくなってはいるものの、全体として今回の侵攻に批判的で、ハマスとかに意見がないわけではないにせよ、そういうのは殺し合いが完全になくなってから言うべきでしょ、と考えているらしい。
この記事によれば、ケレットは第2次インティファーダ以来、ヘブライ語からアラビア語に著書が訳されている唯一の作家であるということだ。また、カンヌで賞を取った映画監督でもある。
http://anond.hatelabo.jp/20090130040254


そして、ケレットは今回のエルサレム賞の選考委員の一人でもある。もちろん、彼がどのような意見を持っているかによって賞の政治的意味が変るというものではない*1。そもそも彼は3人いる委員の一人にすぎないのだし、このエッセイも断固としてかつ徹底的に反対するというものではない。だが、こういうものを書いている人が賞に関わっているということは、覚えておいても良いことかもしれない。

短編集のコミック化などもしているらしく、etgar keretをアマゾンで検索すると色々ひっかかってきた。

*1:言うまでもないことだが、イスラエルの国家としての行動に対する評価も変らない。この話については、次にきちんと書くつもり。