村上春樹を愛するみなさん、ちゃんと寝ていますか?

戦死するなら図書館の前がいい、とずっと思ってきた。そんなことを考えるのはアシモフの『銀河帝国興亡史』の影響なのだけど、図書館防衛軍に加わり、反知性主義的な敵軍と戦うというのは僕にとってのロマンのひとつである。
それとも、その場に至ったらためらってしまうのだろうか?本というのは、人の命(たとえたった一人の命だったそしても)よりも優先されて守られるべきものなのだろうか?あるいは、悩んでいるうちに射ち殺されて、それで戦死ということになるのかもしれない。まあ、巡航ミサイル白燐弾の爆撃で、ということのほうが遥かにありそうなことだけれど。


さて、話がまるっきり変わる上に、僕自身がそういうことを言う資格があるかどうか良くわからないのだけど、あまり短兵急に物事を言うのは良くないと思う。

というのはもちろん、今回のエルサレム賞がらみの記事のことだ。


喜びであれ、怒りであれ、大きな気持の動きを感じたときにそれをライブ感とともに表現できるのはブログの素晴しい利点の一つだ。そして、今は、村上春樹の小説や作品世界を愛する人にとって、簡単に容認することの難しいテクストがウェブ上にあふれている。

だけど、と僕は思うのだ。こんな時だからこそ、他ならぬ村上春樹自身が言った「どんな文章でも一晩は寝かせましょう」という言葉を思い起す必要があるのじゃないか、と。もちろん気持は昂っているし、そういう時は頭の回転が速まるから気の効いた言葉を思いつく。だから書きたくなるのだけど、思いついたことをそのまま記事やコメントにしても、何かが解決することはないと思う。むしろ、相手をますます頑なにさせるだけだ。それでは通じる理屈も通じなくなってしまうだろうし、相手方の発言もどんどんエスカレートしてくる。誰も幸せにはなれない。

そして、それ以上に重大なのは書く人自身のことだ。人間だから間違いはあるし、気持ちが高揚している時にはますますそういうことがある。だけど、感情的なやりとりになってしまうと、そういうのを修正するのは難しい。勢い、そのまま突っ走ってしまうことになる。その挙句に何だかとても奇妙な所に行ってしまい、以前なら口にするはずのないことを書いてしまう…、というようなことが僕には前にあった。今回は、そういうことが起らないと良いと思う。

何と言っても、ガザではこの一月だけでも4ケタのオーダーで人が亡くなっているのだ。議論を間違った方向に持っていくには、事態があまりにも重大である。「間違いでした」「ついかっとなりました」では済まされない。


本は、ただの紙にすぎない。


僕は6歳のときから平均して一日に二冊のペースで本を読んでいるし、小説も大好きだ。だけど、これだけは断言できる。本は、それ自体では人の空腹を満すことも、命を救うこともできないのだ。人があってこその本で、だから、人命と文学のどちらが優先されるべきかははっきりしている。その原則が曲げられるようなことがないと良いと思う。余計なことだけど。


【追記】ちなみに、この記事は4時間寝かせました(短か!)。それ以上待てなかったんです。人に説教がましいことを言うのは百年以上早いということみたいです。やれやれ。