理由はないんだと思う、簡略版

ああ、駄目だ駄目だ。これではかえってわかりにくい!ってことでこの記事の簡略版。

「はてサの皆様に質問がございます。」http://anond.hatelabo.jp/20090107103438

皆様なりの思うところがあり、弱者保護の拡充、体制の変革を求めていらっしゃるのでしょう。

では、その理由はなんですか?

私の無知蒙昧な頭ではその理由を明確に説明することが困難なのです。

に対する答え、「理由はない。また反対するにも理由を考えないほうがよい」を下記の本の議論をベースに詳説する。

私的所有論

私的所有論


救済に反対するとき、その主張を最もつきつめた形にすると「これは私が所有する資源なので、他者の救済には使いたくない」というものになる。しかし、あるものを私的に所有できるとする議論には根拠がない。

私的所有を正当化する議論は、根本的に自己が生産したり制御したりする対象は自己に帰属するというところに行きつく。だが、これは無根拠な信念でしかない。なぜなら、生産や制御とは無限に後退しうる因果の連鎖の一部にすぎないからである。制御する主体を制御するものを想定できるし、生産の素材の生産を考えることもできる。いずれの場合も一般的に言われる「生産者」「制御者」の所有権を保証しないから、私的所有の正当化はどこかで恣意的な打ち切りをともなっているといえる。

このほかに、「所有は個人の幸福につながる」「成果物を私有させることで生産効率が最大になる」「私有させないと資源が浪費される」等々の主張がありえる。だが、たとえば身体を他者に制御される状態を考えれば、これらの議論に欠点があることはすぐわかる(単純に奴隷労働を考えてもよい)。そのような状態では、私的所有なしに資源を適切に管理したり、労働効率を最大化することができるだろう。したがって、普通には私的所有は正当化できない。

しかし、これらの結論を共有の導入に結びつける必要はない。というよりも、そのような議論は我々の直感に反する。たとえば上述のような外部からの身体の直接制御に対して、ほとんどの場合には強い抵抗感が示されるだろう。

私的所有を肯定し共有や外部からの強制を否定する、それ自体としては非合理なこれらの議論が主張するのは、我々には論理を越えて、他者の存在を容認しようとする傾向があることである。ならば、他者の領域、他者の存在を侵したくないという感覚が、一見私的所有を正当化するように見える信念をつくり出すとも言えるのではないか。

ゆえに、私的所有と他者の救済は対立するものではなく、一体のものである。ただしこれは感覚を媒介とするもので、論理によるものではない。ゆえに、人助けに理由はない、と言わねばならない。
なお、理由を挙げて救済に反対することは上記の考察を途中で打ち切ることであり、非論理的な行為である。非論理的行為を批判する理由はないが、理由を説明することは論理的な行為であるから、そこには自己矛盾が生じている。そのようなことは少ないほうが精神衛生によい。ゆえに、「助けるのは何となく嫌だ」という以上のことは言わないほうがよいと考える。