リアル天皇制

今話題のバンクーバーオリンピックの男子スノーボード代表、国母選手について考えていたら(もちろん、彼が服装について激しく批判されている件のことだ)、あるブログ記事へのコメントで、「たとえば天皇陛下の前にあの格好で出るのをあなたは許せるんですか」というコメントがあって、ああ、なるほど、と思った。というのは、メディアでの表現について、それに似たことを考えたことがあったからだ。
対談とか討論とかいったような特殊のフォーマットを除くと、たとえばテレビに出ている人どうしは、基本的に敬語で話し合うものだと思う。そのルールが無視されると、見ている我々は不安感や違和感を抱く。出演している二人が私生活において肝胆相照らす仲であって、「ありゃどう見たってコンディション不良だよねー」「大体この時期に大会持ってくんなっての。協会がおかしいよ」と言いあっていたとしても、画面に登場したときには「やはり監督の手腕の限界だという声もありますが、どう思われますか」「そうですね。ただ、過去のデータを見ますと2月のこの時期にはですね…」と敬語で話し合わなければならないわけだ。このとき、これは誰に対する敬語なのか。そういうことをちょこっと考えていた。

お互いに対する敬語ではない。これははっきりしている。別に尊敬しあっていないわけではないだろうが、それを敬語で表現することはなさそうだ。それなら、視聴者に対する敬語なのではないか、と僕は思ったのだ。それだとしっくりくる。たとえば、就職試験の集団討論だったりとか、社長クラスの偉い人の前での会議だったりとか、そういう場面だったら、たとえ相手が友達や後輩であったとしても、タメ口では話さないだろう。テレビに出ている人が「カメラの向うにすごく偉い人がいる」と思って話してくれたら、僕らは違和感を抱かないのじゃないか。

そういう文脈で天皇が出てくるというのは、とても微妙なことだが、同時にとても納得できることのような気がする。

僕らは普通、自分に対する直接的な敬意の欠如ではなくて、人が「自分が尊重している何かを尊重していない」ことについて苛立ちを抱く。それは、その何かが素晴しいものだと思っている場合もあるし、色々と言いたいことはあるのだけど大人の判断をして尊敬している格好をしていることもあるだろう。いずれの場合でも、その態度に同調しない人は、僕らに挑戦することになる。

もっと平易にいうと、これは世間の常識、あるいは集団の価値観だ。そういうのに僕らは心から同調しているときもあるし、保留はあるけど皆がそうしているから尊重していることもあるだろう。そういうものとして、天皇があらわれる。そんな気がする。

微妙だというのは、次のどちらかがわからないからだ。僕らが共通に保持している礼儀作法のようなものがあって、それを人格的に体現するものとして天皇があるのか。それとも、天皇の存在から僕らの秩序感覚全体が構成されるのか。

「テレビ見てる時に天皇のことなんか考えないよ」と言われればそうだいう気がするし、「礼儀ってのはやはり宮中が基本でしょ」と言われればそうだという気もする。歴史的にいえば、近代の作法は天皇制の影響を強く受けているはずだが、その原型のひとつである近世の作法は室町時代武家のもので天皇とは関係がない。しかし、その前には平安時代の政治秩序があるはずで、とか考えるとどんどん頭が痛くなってくる。誰かエリアスの日本版みたいな仕事をしてくれないものか。