歌ってやれよ、君が代くらい

正月休みに、村上龍の『半島を出よ』と森巣博の『越境者的ニッポン』を読む。そして、ああだるい、と思う。

たとえば、村上龍はこの小説のなかで、日本のある都市の理想の姿を次のように書く。

「アジア千年の知恵」と題して、アジアからの留学生を***1の市や町に一年間住まわせたのだ。市や町をどうやって活性化するかというテーマを、アジアの視点で語るという大規模なイベントだった。二千人近い学生がアジアの各都市からやってきて地元市民や経営者や学生と討論し、アイデアを出し、そのうちのいくつかは実行に移された。留学生が住んだ町並みはそのままアジアンタウンとなって新しい観光名所になり、学生たちはそのあとも**とアジア各国を結ぶ重要な人的資源となった。

これはだるいか。いや、別にだるくはない。次の部分にうつる。物語の山場近くの部分だ。

北朝鮮の艦船はほとんど無防備で、しかも信じられないことにお互いの位置や速度を目測で確認して航行しているようです。レーダーもないし、通常のラジオ無線さえ積んでいない船がほとんどだと思われます。しかし、堂々と航行しています。自衛隊は、これらの五百隻近い艦船を必要とあれば何百回も沈める実力を持っているわけじゃないですか。でも、手をこまねいて見ているしかないわけです。こういうのを皮肉といわないで何を皮肉というのでしょうか。(中略)しかし、日本政府に領海ラインで阻止する覚悟さえあれば、おそらく数分で決着がつくでしょう。

これも、別にだるくはない。村上龍さんが自衛隊の戦力を使って北朝鮮の軍艦を何百隻も撃沈したいと思っていたとして、それは彼の勝手というものだ。おやりになるがよろしい。

だるいのは、この二つが同じ小説のなかで両立しうるということだ。あるいは村上龍のなかで、あるいは読者のなかで、特におかしいとは思われずに。

言うまでもなく、この小説は日本や日本社会に対する批判として書かれている。頻繁にくりかえされるのは、決断というテーマだ。何かを選び、何かを捨てること、それを日本政府や日本社会がやりたがらない、ということが何度も批判される。その対極にあるものとして、アジアとの積極的交流や北朝鮮に対する自衛権の行使が言われる。その意味で、これらは単にメタファーであるに過ぎない。現実の北朝鮮アジア諸国との関係はない。それはちょっと押えておくとして、しかしやはり気になるのは、このふたつがともに「よきこと」として選ばれてしまうことだ。北朝鮮の艦船を500隻沈めて乗員(12万人という設定になっている)を殺害することと、アジアの学生を2千人永住者として迎えること、そのふたつが同じこと、というかそうではないにしても、同じ側のことだとされる。

だるい。

こういうことを言うと、直ちに次のように反論されるだろう。学生は平和的意図を持つ民間人であるのに対して、軍艦に乗っているのは侵略的意図をもつ戦闘員ではないのか、君にはその違いがわからないのか。そういうことだから侵略の経験のない日本人は云々。

そこがだるい。だるいので、次の話にうつる。

森巣もまた、次のように書く。

確かに異なる言語や習俗の小さな相違はあっても、わたしが感じたところでは人間はみな同じだったのである。日本人だから、アメリカ人だから、ケニア人だから、白人だから、黒人だから、ピンク人だから、という違いはなかった。
 卑しい奴がいた。そばにいるだけで、震えがくるほど雅致を持つ人がいた。思考が不自由な奴(バカのこと)もいた。思考が自由すぎる人もいた。そこに、人種・民族・国籍の差はない。あったのは人間の差だけである。
 わたしはその体験を自覚化した。すなわち、思想とした。
グローバリゼーションのせいでというか、おかげでというか、情報、資本、商品等に、国境はなくなった。現在、国境が規制できる(しようとしている)のは、違法薬物と人間の移動くらいのものなのだ。
 そんな奇妙奇天烈なもの(国境)によって切り取られる人間の性質や価値観なんてものが、あるわけがないのである

これもだるくはない。むしろ良い文章だ。問題は、同じ著者が同じ本のなかで、下のように書いてしまうことだ。

 学校行事での君が代斉唱時に、信念に従って不起立を貫く教職員たちは、信念に従って起立する教職員同様に、本人たちは嫌がるかもしれないが、わたしは「愛国者」であると信ずる。
 おそらくもっとも「愛国心」に欠けているのは、「みんなが立つから」とか「立たないと罰せられるから」とか思って起立する教職員たちではなかろうか。(中略)
 非難されるべきは、そして憂うべきは、信念に従って行動するそんな教職員たち−−すなわち「愛国者」たち−−が、もうほんのひと握りしか日本には残されていない点ではなかろうか、とわたしなら考えるのだが、いかがか?

だるい。いや、この文章には罪はない。こういう感じのことは割と誰でも言いそうなことだ。だが、国境に意味はない、ということと、国を愛するのはよいことだ、ということが同列にならぶのはかなり変なことだ。なぜそういうことになるのか、それを考えるとだるい。

面倒臭いので適当に書くが、こういう団塊世代のオジサンたちって、やりたくてしょうがないのだと思う。自衛と正義の名のもとに、敵機を華麗に撃墜したり、敵艦隊を轟沈したり、敵兵を殲滅したりしたいのだし、国旗に向ってぬかずいて感涙に咽びたいのだ。そしてその上で諸国とタイトーにコクサイコーリューしたいのだ。だけど、その根拠として考えると、今の日本国はあまりにもどんくさいし、後暗い。だから、もっと「よい国」になってほしい。そういうことだ。
もちろん、そのタイトーってどこまでのタイトーなんですか、とか、そういうえば強い軍隊と強い愛国心を持った国が太平洋の向うにありますが、あの国の国際関係は、とか、そういうことを聞いてはいけない。そんなことを言えば、譲るべきところは譲り取るべきところは取るとか、自分を尊敬しないものは人にも尊敬されないとか、そういう種類のだるい理屈を散々聞かされることになるからだ。それなら、最初っから「俺は強くて正しいのだから、俺の言うことを聞いておけ」と言われたほうがマシで、とはいえ、そういう水っぽいカレーと塩からいウドンの選択みたいなことはしたくないから、要するにだるいと言うほかはない。

それで、改めて思うのだけど、無関心でいることが良いことなのではないか、と思う。正直なところ、自分にもそういう面はあるのではないかと思うのだ。国だとか故郷だとかいうものに熱くなってしまう面が。そこで、ファシズムに反対するという所までは何とかできると思う。だが、反ファシズム同盟とか反ファシズム国家とかにまで反対できるかというと、そういう自信はちょっとない。うまうまと巻き込まれて、やばい所まで行ってしまいそうな気分がある。

去年からわりと思うのだけど、どうもこういう話でウヨクの人が盛り上るとサヨクの人も負けずに盛り上がり、運動してみたり、日本人として恥しいと言ってみたりする。そういう気持もわからないじゃないけど、なんだが不必要に危険な土俵に上っているような気もする。それは違うんじゃないか。

たとえば日の丸に君が代なんだったら、それはたかが旗と歌のことなのだから、立てと言われるなら立ち、歌えと言われるなら歌うでいいような気もする。何も命を取る、取られるという話ではない。
逆に、命にかかわることだったら、人を殺したり傷つけたりするのは間違っているという理由だけによって抵抗すればよい。さもないと永遠に同じことの繰り返しになるような気がするのだが。

*1:ネタバレを防ぐために伏せる。原作では日本の地名