「可能性がある」

この記事の話。

理系のほうだと勝手が違うし、文脈がわからないので何とも言えないのだけど、僕がいる社会科学の世界では、「可能性がある」はそういう風には使ってないかもしれない。僕の知るかぎり、「可能性がある」は大体次のふたつのどちらかの意味で使われるし、使っているように思う。

  1. かなり有力な仮説があり、データも否定的ではない。とはいえ統計的に有意ではないし、今回の調査はそういう設計ではなかったので決定的なところがわからない。当然確定的なことは言えないので示唆に留める。誰か再調査してくれ。
  2. 予想していたような結果が出ず、意味のある新解釈もできなかった。どうやら見逃している第三の要素か、攪乱要因か何かがあるらしく思われるが、はっきりしたことはわからない。ただ、合理的な説明はこれしかない。

つまり、「どうもはっきりしたことは言い難いんだよなあ」という感じの時に「可能性がある」と言っているわけだ。逆にいうと「ほぼなさそうだ」と思っているときには、「可能性がある」とは言わない。

まあ、およそ煮え切らない態度だが、こういうことは案外多くあるというのは研究者でない人にはなかなか解りにくいのかもしれない。有り得ないことを排除していくと最後に正解が現われるというのは多分に理想主義な論理主義で、実際には予断ありありからスタートして期待外れと見当違いを繰り返しながら真実ににじり寄っていく、というのが科学の姿である。

本当、すっきりした説明図式なんてホームランくらいの確率でしか出ないんだって。