派遣村批判とか

派遣村批判とかを見ていると、権威主義的パーソナリティの概念を思い出す。といって、あの単純化された9項目か何だかの話ではない。あれだと多義的に解釈できてしまう。オリジナルの概念を良く紹介するものとして、グーグル2枚目より手前では、たとえばこれ。

権威主義(authoritarism)とは、政治的・社会的・歴史的に優越性(価値性)が認められた既存の権威や権力に無条件に従うことで利益を得ようとする考え方のことである。権威主義者は、自分より上位にあると認める社会的権威や政治的権力、支配的価値観に対して卑屈で弱腰であり、勝ち馬に乗ることを信条として『寄らば大樹の陰・長いものには巻かれろ』の格言に示される従属的な態度を取る。しかし、その一方で、自分より下位にあると考える社会的弱者・政治的マイノリティ、周縁的価値観(サブカルチャー)に対して傲慢不遜で威圧的であり、権力(財力)や権威を何も持たない社会的弱者を侮蔑している。

エーリッヒ・フロムは、「自由からの逃走」を導く性格特性として権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)を考えたが、権威主義に同調的なパーソナリティ(人格)は「自分の自由」よりも「権威への従属(忠誠)」を重視するのである。フロムは権威主義的パーソナリティを、「強者への服従・弱者への攻撃」を特徴とする社会病理であり病理的性格構造であるとした。

「エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と権威主義的パーソナリティ(サディズムマゾヒズム)」http://digitalword.seesaa.net/article/43282421.html


病理であるかどうかはさておき、フロムがここで述べているのはドイツ・ナチス党の支持者のことだ。まあ、それなら批判されるのもわかるだろう。ちなみに、フロムの分析では、これらの人々は超巨大企業との競争に敗れつつあった小規模商工業者だった。全く対等に競争できないものと争いつつ、なお全ては個人の努力と実力で決まる(社会情勢とは関係がない)という価値観を死守しようとしたところに問題があったわけだ。


で、日本で今になって同じような人が出ているのを見て思うのは、次のようなことだ。

  1. 日本は、実は先進国でも何でもなく、ヨーロッパの経験を周回遅れで繰り返しているだけなのではないか
  2. フロムであれマルクスであれ、社会変動を予見する人々はスケールが小さすぎたのではないか。実際の変化は数百年かかって起るのではないか。

どちらも憂鬱な感想ではあるのだが、僕には否定しがたい。我々はごくちっぽけな存在なのだ。