教室というフレーム

博士課程に上がったばかりのころだからかれこれ10年くらい前のこと、「開かれた学問の場」に参加したことがある。
それは、できたばかりの市民団体の学習会で、あまりテーマを限定しないでマルクス主義とかポストモダンとかを読み返してみようという集まりだった。そういうのなら、院でかじっていなくもないので「社会への知の還元」というのがやれるかと思って、出掛けてみたわけだ。

人生経験の浅さを指摘されるとか、生硬な理解を糺されるとか、そういう事態を覚悟して出掛けたのだが、全然甘かった。実際に起ったのはもっとすさまじいハプニングだった。出席していた活動家のオジサンたちが理解の方向性をめぐって対立し、大喧嘩を始めたのだ。最後には「なぜこの活動をやっているのだ」「利害関心を明らかにしろ」というような話から人格攻撃に発展し、その日だけではもちろん収まりがつかなくて、「いざとなったら物理的に排除する」という内容のメールが飛び交うという事態になった。

僕は、別に嫌気が差したりはしなかった。もともと喧嘩は嫌いな方ではないし、彼らの真摯さが騒ぎに結びついていることも理解できたからだ。ただ、やはり教訓は学んだ。それは、学校という制度、教室という形式の退屈さにも、それなりの意味があるということだ。

学校という枠組に収まっている限り、どんな対立も議論も、参加者の存在を否定する所まではいかない。時間もある程度は区切られる。やっていることが現実世界と直結しないことも了解ずみだ。それは、窮屈なことではあるけれど、安全弁としても機能するのだ。
特に、社会学や哲学のような、存在に直結するテーマを扱う学問の場合、形式による歯止めを作っておくのは大事なことなのではないかと思う。必ずしも学校である必要はなかろう。講演会でも、教室でも、運動でもいいと思う。とにかく不定形なのは危険すぎる。

制度を舐めてはいけない。長く続いているものには、それなりの存在理由があるのだ。