犯罪被害者への帰責と社会学的進歩のなさ

ネット言論の一番奥深いところにある幻想は、「我々は独立した感覚と意見を持った存在であり、その表明が集合的になにかを形作る」というものだと思っているのだけど、どうなんだろうか。

もちろん、それは幻想だ。メディアでつながる人々の出現というのは、100年も前にタルドが新聞読者について言っていたことでなんら目新しいものではないという意味でそうだし、「その公衆たちは独自の意見を持っているように見えて、実は新聞を模倣しているにすぎない」と彼が断言した、という意味でもそうだ*1


ある種の犯罪について、加害者(正確には単に容疑者なのだが、それはともかく)の断罪よりも被害者の落ち度を非難するようなことを言うひとたちがいて、その主張の論理的な誤りを批判するひとたちがいる。
どちらの人たちも、「自分たちがやっているのは論理的な意見の表明である」と言っているように僕にはみえて、その誠実さを疑うわけではないが、自分がうけてきた学問的訓練の流れからいうと、「うーん」な感じになってしまう。社会学的な知が生かされないのはなぜか。


おそらく、犯罪は共同体感覚を傷つける、恐しいものなのだ。だから人々はそれを異質化しようとするだろう。加害者、被害者、発生環境のすべてを。「我々は関係ない」「我々はあのような恐しい(または愚かしい)人間ではない」「我々はあのような場所には近づかない」といったように。「あれは我々の一部ではない」ということがまずあるのであって、加害者が悪いか被害者が悪いか、というのはおしなべて後づけのロジックだ。
その我々感覚が社会をなりたたせる根本である、というところまで含めて全ては超古典的なデュルケームの議論にすぎないのだが、そういうことを誰かが言ってもいいんじゃないかなあ、とは思う。古いことは無効であることとイコールではあるまい。


報道を模倣しているのか、共同体の感覚を代弁しているのかはともかく、我々は外部的な何かによって突き動かされているのではないか、という視点を持つことは必要なのじゃないだろうか。ネットワーカーはスマートな何かである前にまずモブスなのだし、人々はネット共同体に属す前にまず国家や地域社会に属している。そのことを再帰的に組込まないと、同じところをぐるぐるまわっているだけで、どこにも行けないだろう。


正義を否定するというのではなく、個人を軽んじるというのでもない。だけど、古典的な批判がいつまでたっても有効であり続けるというのは進歩という観点から見て疑問だ。そう思う。

*1:後者はあまり知られていないと思う。日本では「公衆はよいものだが、日本人には無理だった」というように理解されているからだ。こういう二重、三重の誤解も非常に重要だ