いつ死んでもいいってこと

死は断絶を意味する

死後生、転生はあるかもしれないし、ないかもしれない。それはともかくとして、死は断絶であって、今持っているリソース(身体、物質的な富、記憶、知識、人間関係など)へのアクセスが絶たれることであると考える。あるいは、アクセスはあってもコントロールがない状態。どっちでもいい。ともかく、「この世のものでなくなる」ことを前提にしないと、いつ死んでもいい、という言い方がおかしくなる。

長期計画の不在

「明日やりたいこと」を抱えているのなら、それはいつ死んでもいいという状態ではない。来年、再来年についても同断。長期計画はありえない。もちろん、「どうせ生きているならこれをやっておこう」という程度の漠然とした計画性は問題ではないが。

他人の思惑は関係ない

死んだあとに何が起こっても関係がない。それを知ることができないか、知ったとしても自己満足程度のことしかできない。したがって、誰かを満足させるために死ぬことはない。「じゃあ、俺が死ぬよ」と宣言することで誰かの幸福度がアップし、それで自分が幸福になるなら、そ知らぬ顔をしてそのまま生き続ければよい。怒り狂った相手に殺されても問題ではない。いつ死んでもいいからである。

苦痛から免れるために死ぬことはありえる

生が苦痛に満ち溢れている場合、それから断絶するために死ぬことはありえる。死んだからといって苦痛がない状態を味わうことはできないが、苦痛がある状態は終わる。もっとも、死を受容している場合に、「耐えることが不可能であるほどの苦痛」というのがどの程度のものになるのかは疑問だが。

生の充溢

著しい苦痛がない場合、自分の快楽を最優先して生きることになる。中断のリスクはすでに受容されている。長期計画も、他者への配慮もない。自分の快楽を最大化することに、すべてが集約される。「理性を持った動物」としての姿が、くっきりと現れることになろう。

案外つまらない

もっと面白い話になるかと思ったけど。