マジョリティとヘイトスピーチ

某所で話したレジュメを一部編集して公開します。

1.ヘイトスピーチの定義
・「憎悪に基づく表現」一般のことではない
・ 「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道」(自由権規約
・ 人種とは…「人種、皮膚の色、出自又は民族的若しくは種族的出身」(人種差別撤廃条約
・ 典型的には社会的少数者に向けられるもの(一般的勧告35)
ジェンダーやセックスも視野に入れるべき


2.ヘイトスピーチはなぜいけないか
・ 標的となったマイノリティの精神を傷つけ、生活や社会参加を妨害する…不安、社会への不信、PTSD、ネットや地域社会への参加の妨害
ヘイトクライムへの発展…究極的には、ジェノサイド
・ 一言で言えば、人権の侵害である
・ しかし、マジョリティは被害者の存在を忘れ、加害者に対処することに注目しがちである


3.差別に反対するマジョリティは、二つの態度を両立させなければならない
ヘイトスピーチに反対するのは、特別なことではない…社会の一員として当然のこと
ヘイトスピーチに反対するのは、特別なことである…マジョリティが自己変革する覚悟なしでは何も解決しない
・ 「トラブルを起こさないマイノリティ」「差別的でないマジョリティ」は存在しない→「ただヘイトスピーチに反対するだけ」は不可能


4.反差別と差別の三形態

a.差別の形態: 序列化
・ 言い換えると…「見下し」(侮蔑・蔑視)
・ 反差別の現場でマジョリティがしそうな序列化…「マイノリティを差別から守る」
・ 反差別の現場でありそうな差別…「マイノリティはかわいそう」/「マイノリティは大袈裟だ」
・ マジョリティが心得るべきこと…差別があることを認める。自分たちが不当な利益を得ていることを認識する

b. 差異化
・ 言い換えると…「遠ざけ」(忌避・排除)
・ 反差別の現場でマジョリティがしそうな差異化…「同じ社会の一員として差別に反対する」
・ 反差別の現場でありそうな差別…「マイノリティのことをわかれない」/「マイノリティとは一緒にやれない」
・ マジョリティが心得るべきこと…わからないと決めつけない。一緒にやることを諦めない

c.  同化強制
・ 言い換えると…「違いの無視」(伝統・文化・アイデンティティの否定)
・ 反差別の現場でマジョリティがしそうな同化強制…「我々と同じなのに差別されているのは許せない」
・ 反差別の現場でありそうな差別…「我々は同じだ」/「マイノリティは違うと言いすぎる」
・ マジョリティが心得るべきこと…違いを認める。多様性が正常であることを認識する


5.マジョリティの三つの原則
・ 見下さない…自分たちが不当な利益を得ていることを認識する
・ 遠ざけない…一緒にやることを諦めない
・ 違いを認める…多様性が正常であると考える


6.マイノリティファースト
・ 「それは逆差別ではないか」という反発はかならずある
・ だが、これ(上記三原則)くらいやって、ようやく差別が若干解消されるにすぎない
・ マジョリティは「自然に」多くのメリットを得ている


7.めざすべき社会
・ 平等と多様性の両立
アイデンティティと柔軟性の両立
・ 一足飛びの解決策はない。ひとつひとつ問題を解決していくしかない

維新は大阪をよくしなかった

5月17日の朝、「今アピールしなくていつするんだ」と思って書いた、維新市政批判の連続ツイート、こっちにもまとめときます。

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「このままの大阪市でいいんですか?」という言い方を、維新・都構想支持の人から良く聞く。では、橋下氏が市長になってからの4年間で大阪の行政はどれくらい良くなったのか。市役所の対応、行政と市民との連携が良くなったとはいえない。橋下氏は改革に熱心ではないか、または無能なのだ。僕は、若い改革派の市長がいる都市に住んだこともある。そういう市長は、まず市役所の雰囲気を変えるし、市民への対応も変える。行政と市民のインターフェイスがまず改善され、市民が市役所を利用しやすくなる。維新市政・府政はそういうことを何かやっただろうか?僕は、むしろ後退していると思う。

それまでの大阪市政は、不十分であり、遅すぎたとはいえ、市民の行政参画を試み、特に都心部では壊滅状態に近い住民自治組織を再建するという作業を地道にやっていた。「一緒にやりまひょ」というスローガンを、僕もよく耳にした。 維新市政になってから、そうしたものは全くなくなった。財政が厳しく、ニーズが多様化する中で、市民との協働を志向するというのは、自治体としては王道だ。かつての大阪市政はその点で誤りはなかったと思う。維新が市政を握ってから、そういう動きはなくなった。代わりに生じたのは、市長や区長のトップダウンによる(悪く言えば思いつきの)「改革」だ。

維新市政の最大の特徴は、住民が不在であることだ。「公募区長」「アーツカウンシル」、聞こえは良かった。だが、実際にやっていたことはひたすらなる業務の民間委託だ。住民との協働ではない。住民は単なる消費者、顧客として位置づけられた。低コストで顧客満足度を上げるという、企業的な発想だった。しかも、その意思の決定は全て維新の思うままだった。せめて、地元出身の維新議員を区長にするなら筋は通っただろう。だが、公募されてきたのは怪しげなコンサルタントや企業経営者にすぎなかった。アーツカウンシルにしても、既にきちんと機能し、実績もあった市民参加型の組織を解体しての構想化だ。

維新の市政とは、要するに、「古い市役所」への復帰にすぎない。市役所はトップダウン型の顧客サービス組織として動き、市民は消費と評価と投票だけをやる。アイデアは外部から招致した顧問が提供するというわけだ。その究極の形が都構想である。権限は都知事に集約され、議会がチェックする。都構想における特別区自治能力の弱さは、都(というか府だが)知事の権限強化の別な面に過ぎない。基礎自治体云々という聞こえのいい言葉の裏には、重要な政策を知事の独裁によって進めたいという意図が隠されている。これは、維新がずっと志向してきた政治手法である。
トップダウンですべてを決める。トップは選挙による審判を受ける」というのが、維新と橋下市長が志向する政治の手法である。だが、それがうまく行くのだろうか? というよりも、「市役所という組織が全てを決めようとしてきたこと」こそが、組織の非効率化や実体と乖離した行政の原因ではないのか?外部のコンサルタントも重要だろう。民間企業のアイデアの応用も必要だろう。だが、現場で動く人の実感をくみ上げること、最大のステークホルダーである市民自身を参加させることなしに、行政がうまく行くとは到底思えない。21世紀の地方行政の王道である市民参加と全く逆行しているのが維新市政だ。

大阪維新は、行政と政治から市民を排除し、現場からなるたけ遠いところで物事を決めようとしてきた。その究極の形が都構想だ。市民が選ぶ特別区長と議会からは極力予算と権限を取り上げ、重要なことは府と一部事務組合で決める。だが、これは効率の良い組織ではない。トップダウン型の巨大組織(維新の構想する大阪府と一部事務組合はまさにそのような組織である)は、必ず官僚主義化と硬直化を招く。その先に待っているのは、派閥の形成と内部での綱引きによる歪んだ意思決定だ。 それを防げるのは、多くのステークホルダーの参加と組織の柔軟性の確保だ。大阪では、不完全ながらそのような住民参加がずっと試みられてきた。教育でも、福祉でも、多くの場面で、地域団体や当事者団体が市役所と粘り強く交渉し、システムを誰にとっても使いやすい、効率の良いものに変えてきた。特別区の設置は、そうしたものをすべて否定するものだ。

都構想(特別区設置)による、大阪のトップダウン型組織への作り変えを、「トップダウン型だから」ということだけによって否定するつもりはない。そのほうが心地よい人もいるだろう。「金と票だけを出していたい」という望みは、それはそれでまっとうなものだ。だが、それはうまくいかない。「お任せ民主主義」がダメなのは、それが自治でないからではない。うまくいかないからだ。現場から離れたところで行われるトップダウンの決定は、必ず実態とずれた、効率の悪いものになる。面倒でも、嫌でも、市民が参加していく以外に解決策はない。 都構想はそれに逆行する、失敗を保証された政策だ。

僕は、かつての大阪市政の全てが良かったとは思わない。平松市長も(市民派ではあったけれども)、個人の資質に疑問があったり、逆に、官僚的な市役所の改革が充分でなかったりした。 だが、これだけは言える。維新はそれに輪をかけて酷い。そして、彼らの最終目標が都構想だ。維新は大阪で本格化しようとしていた行政と市民の協働の芽を潰した。そして、今、これまで目立たない形で、でもしっかりと続けられてきた市民主導の制度を「既得権」の名の元に潰そうとしている。それが特別区設置(都構想)だ。彼らは明るい未来を約束する。だが、それが実現することはありえない。開発独裁型の社会ならともかく、成熟し、多様化した社会でトップダウン型の行政が機能する可能性はない。そして、これまでの実績が証明するように、維新は市民の意見は聞かず、自らが招致した有識者コンサルタントだけを重用する。その彼らが設計する「大阪都」がうまくいくはずはない。

維新の住民無視の姿勢は、今回の住民投票に国籍条項を設けていることからもあきらかだ。 大阪の未来を決めるという時に、決して少なくない割合の市民が、最初から排除されているのだ。このような現場軽視、市民無視の姿勢によってつくられる新しい体制が、良いものになるはずはない。昨日、街頭で橋下市長が「今の生活を守るだけでは未来は開けません」と語るのを聞いた。だが、人間は生き物だ。今の生活を守らなかったらその時点で死んでしまう。 ゼロベースで設計ができ、作業中は全ての人の時間を止めておけるなら、どんな改革も可能だろう。だが、現実はゲームではない。「長期的に勝つためには、まず短期的に勝たなければならない」と語ったのはアーセン・ベンゲルだったか。現実とはそういうものだ。大阪は維新に7年、維新市政に4年という時間を与えた。状況は何もよくなっていない。これ以上、彼らの政策を支持するという選択はあり得ない。

図書館の話をしよう。「大阪は図書館がありすぎる、二重行政だ」と維新は言う。だが、実は大阪の中心、梅田ー淀屋橋―心斎橋の間に、市立図書館は一つもない。そのエリアが図書館不毛地帯になることがなかったのは、大阪府中之島図書館の存在があったからだ。むろん、維新が閉鎖しようとした所だ。僕自身も、中之島図書館には不満がある。だが、それは機能と規模が小さすぎることだ。あれは拡充すべきもので、閉鎖すべきものでは断じてない。多くの場合、維新の政策は実態に全く即していない。空理空論に過ぎないのだ。

図書館だけではない。大阪市の区役所(行政区の区役所)や体育施設、図書館などは、駅から遠いものが多い(少数の称賛すべき例外はある)。最も便利であるべき施設が、なぜかもっとも不便なところにある。維新はそれらを改革しようとしたか。4年間の市政のうちに、せめて少し便利にしようとしたのか。

大阪には、総合生涯学習センターが三つある。橋下市長は、これを廃止しようとし、それに失敗すると一つに統合しようとした。だが、実はこれらの施設は稼働率が高く、部屋の予約は熾烈な争奪戦になっている。維新は実態と機能を全く知らずに市政をやってきた。そして今、都構想を進めようとしている。

維新は大阪市を良くしなかった。行政への住民参加を進めず、現場の声をくみ取れる組織にしなかった。4年間かけて、全くその片鱗すら作れなかったものを、都構想で実現する意思が彼らにあるとは思えない。 特別区の設置によって、行政はますます市民から遠いものになり、そして確実に失敗するだろう。

遅れてたレポート

行動保守動向レポート、2014年1〜3月分をようやくアップ。

要約は以下の通り。

  • 2014年1〜3月期の行動保守の活動(街宣およびデモ)は107件だった。これは前年同期比で11%の増加である。
  • 活動件数増加の主な要因は東京と大阪での街宣の増加で、特に3月が著しかった。
  • 平均参加人数は17人だった。前年同時期との比較ができる東京と大阪では、人数がおよそ半分になっていることが確認された。


行動保守動向レポート14.1-3.pdf 直

戦時性暴力としての「慰安婦」問題について

某所に書いたメモを再掲。

問題の構図

1. サバイバーへの攻撃の構造

ネット右翼や行動保守などの人のこの問題へのアプローチにはいくつかの共通点があって、その一つが、「慰安所」の実態を証言するサバイバーの方々や、その支援者の方々を攻撃するというものだ。不愉快だが、あえて実例を見ておこう。以下は、吉見義明さんの『従軍慰安婦資料集』へのレビューとして、アマゾンに掲載されている、匿名の読者によるものだ。

「昔から嘘の例えに「女郎の誠」というのがあって、女郎の身の上話など誰も本気で信じたりはしなかった。売春婦は嘘をつくのが商売みたいなものだからだ。ところが現代の無垢な日本人は、元慰安婦と称するお婆ちゃんが泣きわめいて悲劇のヒロインを演じているのを見ると、コロッと騙されるのである」
http://www.amazon.co.jp/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E8%B3%87%E6%96%99%E9%9B%86-%E5%90%89%E8%A6%8B-%E7%BE%A9%E6%98%8E/dp/4272520253

また、小林よしのり氏も次のように書く。

「元慰安婦の老婆が泣いて訴えているとなると、この上ない「弱者」に見えるから、当時は一瞬で信じた人が多かった。わしが元慰安婦の証言を検証すると、なんという冷酷な男だと、特に女性からの反発はすごかった」
https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=joum7te4c-1998#_1998

表現の形態は多様で、時に巧みに偽装されてもいるが、ポイントは明確だ。攻撃者たちはサバイバーの証言が嘘であると主張し、その主張を彼女たちが「売春」行為をしていたという点に結びつけるのである。その典型例が(これも不愉快だが敢えて引用するが)ザイトク達が街頭でしばしば使う「嘘つき売春婦」というキャッチフレーズである。
言うまでもないことだが、これは差別だ。そこでは、セックスワークが、「反道徳的なるもの」の領域へとおしこめられ、さらに女性のセックスワーカーが、女性のセックスワーカーであるというだけの理由によって「様々なタイプの反道徳的行為を行いがちな人」というレッテルを貼られている。

2. 証言の無効化

攻撃者たちがおこなおうとしてるのは、「慰安所」サバイバーの人々の訴えを無力化しようとすることだといってよい。証言は嘘だと言ってみたり、利用されていると主張したり、当時は合法であったと言い募ったりする。言い方は違っていても、それは彼女たちの訴えを否定しようとするものだ。さまざまなスティグマとともに「売春婦」という呼び方を押し付け、その傷は受けて当然か「やむをえない」ものであったと言い、その怒りは不当なものだといおうとするのだ。セックスワークに関する差別を言い立てて支援運動を批判するものや、「愛国的」行為であったことを強調しようとするものなども、すべてこのタイプに属する。だが、当事者の怒りを無効化し、自分たちに都合の良い図式に収まることを強制する行為に、いかなる正当性があるというのだろうか。

3. なされるべきこと

サバイバーの人々の証言には、様々なタイプものがある。しかし、そのすべてに共通するのは、彼女たちの心と、体と、人間関係と人生とに刻み付けられた、深い傷である。ある人は子どもが産めない身体になったといい、ある人は結婚しても夫婦関係が円滑にいかなかったと嘆き、ある人は人間不信になってしまったと訴える。そのような傷を癒すのではなく否定することを考えるのは、差別意識と利己性に突き動かされる者たちだけだ。
もちろん、僕らは傷をなかったことにすることはできない。だが、人を本当に傷つけるものは何か、考えることはできる。それは、世界からの疎外、疎まれていると感じることなのだ。世界中が自分を傷つけようとしているように感じられること、誰も謝らないこと、誰も自分を傷つけた人を非難しないこと、自分の経験が事実や教訓として尊重されないこと、皆が「お前の傷はしかたがなかった」と言うこと。僕らがすべきことは、まさにその逆だ。サバイバーの人々の話を聞き、それを尊重し、加害者の処罰や補償をおこない、未来への教訓として受け止め、制度や法を改正すること。サバイバーの方たちが「これが自分の住むべき世界だ」と感じ、進んで参加していただけるような世界をつくること。

問題の本質:戦時性暴力

4. セックスワークの位置づけ

傷は、どこからくるのだろうか。一つには、当時の文化から来るのだと思う。これも、攻撃者たちが都合よく見落とすのだが、多くの証言では「男性の相手をさせられていたことを、誰にも言えなかった」ということが語られている。中には、工場での求人に応じて慰安所に送られ、強制的にセックスワークに従事させられていながら、故郷の両親には「工場で働いている」という手紙を送っていた人もいる。戦前の資料や小説などを見ても、セックスワーク一般が「道徳的に劣ったもの」として、差別的なまなざしで見られていたことは明白だ(もちろん、仲には「逆張り」的な意味合いにおいてセックスワークやその従事者を称賛するようなことを描いた人もいるが、それが一般的なものであったと考えることはできない)。何らかの同意があったと言ったところで、傷がましになるわけではない。しかも、多くの場合にはセックスワークであることを伏せて求人したり、本人の同意なく人身を拘束したり、目的地を偽ったり移動中を略取したりしたのだ。武力を背景に慰安所でのセックスワークを強要したケースもある。そのような非道が、人の心に傷を残さないとしたら、そのほうがおかしいだろう。

5. 暴力

慰安所では、しばしば、はっきりとした暴力が振るわれている。朝鮮半島や中国から送り込まれた人の場合、女性たちは初潮すら迎えていない10代前半の少女であることがしばしばあった。日本軍は性病の予防を重視していたので、そのような病気に感染していない女性を利用しようとしたのだ(性病は兵士としての運動能力を失わせ、治療に長い期間が必要とされるので、軍隊の戦力を削ぐものとして嫌われた。ただし、後述するように予防は概ね成功していない)。こうした女性たちは性交渉の経験がなかったのでセックスワークに従事するためには体に外科的な措置を行う必要があり、それがしばしば暴力的な形でおこなわれている。また、慰安所の経営者による支配のための暴力があり、軍人たちによる性交渉と一体となった暴力もあった。さまざま暴力が、女性たちを傷つけた。

6.奴隷的拘束

慰安所における日常生活をみてゆくと、それがセックスワークと食い違うことがはっきりする。女性たちは男性との性交渉をもつその部屋を居室として使わされており、日常生活の自由は全くなかった。表面上、給与や契約が存在することになっていたはずだが「そうしたものは見たことがない」「給料を受け取ったことはない」という証言も多くあり、女性たちに知らされていたかどうかは疑問である。また、多くは外出の自由もなかったようだ。外出などについては地域や施設によって濃淡があり、中には他よりもマシなところもあったようだ。だが、全体として女性たちの境遇が奴隷的拘束にあたり、正当なセックスワークなどでなかったことは明白である。

7. 性暴力

慰安所での実態は、セックスに関わる部分でも過酷だった。これらも場所によって濃淡があるが、女性一人が一日に相手をさせられる男性の数は、多いときには7−8名から30名以上になることがあった。慰安所における「過密」状態については、元兵士の証言もしばしば得られているところである。そのような大人数との連続した性交渉は、しばしば女性を身体的に傷つけた。それはセックスワークではなく、性暴力である。女性たちはしかし、苦痛や疲労を理由にセックスを拒否することはできなかった。また、ほとんどの証言者が生理中でもセックスを強要されたという点で一致している。

8.搾取

女性本人や家族に「前借金」という形で金をわたし、その元本と利子の返済を強要することで売春業に縛り付けること、調度品や衣類、日常生活用品や食料品を本人の負担として給料から天引きすること、女性たちの負担金を高額に設定して新たな借金を作らせその返済の名目で無給で働かせること、などは日本のセックスワーク経営に伝統的に見られた搾取の構造であった。慰安所でも、それらのことが日常的に行われていた。更に、女性が若い、教育に欠ける、日本語能力に欠ける等の弱点を持つ場合、そうした形式的な名目すら示さず、暴力によって支配し、搾取する場合もあった。

9.ケアの不在

コンドームの使用が徹底しなかったため、女性たちはしばしば妊娠させられたり、性病に感染させられたりした(この後者が、日本軍の性病対策が失敗した理由である。兵士から女性への感染を、彼らは防ぐことができなかった)。このような場合、慰安所の運営を円滑に維持するため、女性には妊娠中絶や病気の治療などが施されたが、その医療水準はしばしば劣悪であったようである。また、医療行為が失敗に終わった場合、女性たちはしばしば死ぬに任された。このようなことは基本的な人権の蹂躙であり、奴隷的拘束の一部である。

10.戦時性暴力

これらのことをすべて考えあわせると、慰安所において行われていたことがセックスワークの範疇に入ることであると言う事はできない。これらのことは戦時における性暴力であり、人に対する奴隷的な扱いであるというべきである。こうした行為の被害者となった人々に対してなすべきことは、名誉の回復と補償であって、それ以外ではない。

攻撃の性格

11.証言への攻撃の論理


攻撃者たちは、それでも、こうした事実を否定しようとする。彼らがおこないうるただ一つの行為が、証言への攻撃である。だが、その論法は奇妙な循環をなす。「証言は嘘である」「なぜなら、証言者は売春婦であるからだ」「証言者が売春婦であるといえるのは、証言が嘘だからだ」と。
この、奇妙な論理を支える前提を、再び小林よしのりに見よう。米軍の有名な報告書内容を紹介して、彼はまず次のように言う。
「これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知・無教養であった。…この好条件の「役務」が実は何を意味しているか、当時の大人ならわかっていたはずで、本人は知らなくとも、家族は事情を承知していたはずである」
https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=jov8yr5b1-1998#_1998
家族云々は「身売り」に関する彼の議論とかかわるのだが、それはさておこう。少なくとも、この、米軍によって救出され、調査された女性たちが自発的にセックスワーカーになったのでないことは、小林によって認識されている。だが、この次の回において、報告書が(侮蔑的に)女性たちのパーソナリティを描写しているところを引用して、彼は次のように言う。
「よく観察しているとしか言いようがない。ある意味、典型的な娼婦の性格と言えよう」
https://www.gosen-dojo.com/index.php?key=jorgjm46o-1998#_1998
つまり、彼はこのように言いたいのだ。「娼婦には、固有の性格がある。それは、不特定多数の男性とセックスをするという状況におかれることによって、女性に身につく」と。言葉を変えて言えば、「たとえ強要されたにせよ、セックスワークによって女性は穢れる」ということだ。ここに示されるのは、単純かつ古典的な女性への偏見であり、醜悪としか言いようはない。

12.サバイバー攻撃者の理想世界

それでもなお、「慰安所制度」サバイバーの経験が、別様に語られた可能性を想像することはできよう。たとえば、日本の軍事的敗北という「偶発的」事態がなければ、その語りは抑圧され、少なくとも「告発」を伴うものにはならなかっただろう。
だが、現にそのようにならなかった世界において、そうした仮想を理想のものとし、サバイバーの語りをそのようなものに変形させようとする試みは(これこそがまさに上品な語り口を伴う歴史修正主義者がなそうとしていることだが)、どのような意味を持つだろうか。そのような価値観は、民主主義を否定せざるを得ず、平和主義を拒否し、戦後の反映を打消し、なによりも民族自決と反植民地主義の原則を否定するものにならざるをえない。それが正義であろうか。

13.なすべきこと

性的暴力の被害者としての、「慰安所」サバイバーの語りを攻撃することは、結局、女性差別か、人類の大義への攻撃か、またはその両方に帰結するほかない。その逆であることは、当事者によりそい、その名誉を回復し、損害を補償し、共に参加できる世界を構築することにほかならない。どちらを選ぶべきか、答えは明白である。

日本のナショナリズムとか将来とか

偉そうなことを言うのは好きではないし、伝統だの社会のあり方だのを訳知り顔で語るのも嫌いだ。そこまでの実力も地位もない。けれど、一方で「日本の伝統」とか「日本人の感覚」とかをしたり顔で持ち出し、差別や排除を正当化しようとする人たちもいる。そういう人たちの言うことを黙って聞いているよりは、自分なりに言えることを言ってみようかと思ってこの記事を書いた。素人のやることだから間違いやツッコミどころは沢山あると思う。これをきっかけに、いろいろ考えて、発言していく人が増えてくれると嬉しい。


ベネディクト=アンダーソンは好きだしロマンだけど、やっぱり日本にそのまま適用するのは無理があるよな、と思う。まあ、アンダーソン自身も「ナショナリズムをすべて説明できる」と言っているわけではないけど、日本のナショナリズムを近代国家体制(=近代の国際関係)だけで理解するのは多分難しい。
明治維新はあきらかに世界的な国民国家制への移行への対応で、だから国際関係で理解できるのだが、そこで利用された資源はそれまでの社会にあったもので、近代に発明されたものではない。ホブズボームがヨーロッパの例で言ったように、そこにプロト=ネーションのようなものを想定する方が妥当だろう。まして、東アジアには古代以来、中央集権国家をもつ地域が二つも三つもあったのだから、日本がその影響を受けないと考える方が不自然である。

明治維新の時もそうだけど、中世にも古代律令国家の輪郭をベースになにがしかの境界性が意識されていて、そこに「日本」のようなイメージ(名前はともかく)がないとは思いがたい。それをどれだけの人が共有していたかは問題だが、我々が想像する以上に「知識人層」の広がりがあって、一般の人たちもいざ「世界像」を得ようとするときには、それに依拠していたのではないか、と僕は思う(中世は、日本書記や古事記のほかに、偽文書やら社寺縁起やらが溢れる社会でもあった)。

中世には地方に権力が分立し、各地に独立国が沢山あった…と考えるのはロマンティックなのだが、律令の分国制がずっと維持され、戦国大名ですら三河の統一だの、越前から越後に侵攻だのと言っていたことは忘れてはなるまい。官制も形式だけとはいえずっと踏襲されたし、一部を除いて独自の年号が使われるということもなかった。天皇制による時間と空間の支配は、濃淡の違いはあれ基本的な枠組みとしては維持され続けていたと言わざるを得ないと僕は思う。その意味で、古代律令国家の影響は後々までずっと続いたと言えるのではないか。

その律令国家は多分古代氏族社会が統一されてできたものだと思うのだけど、歴史に現れた時点では既に王権として確立されていて、現在の日本社会のマジョリティとなる人々の歴史の中に、天皇制の中央集権国家があったことはまちがいない。制度や神話、宗教などの大半は(いや、おそらく人そのものだって)朝鮮半島から渡ってきたことは間違いなく、したがってそれは「日本オリジナルの伝統」などでは全然ないと思うのだが、少なくとも政治的統一体があったことは否定できないだろう*1。こうしたものが様々な形で伝承され、記憶されて、「復古」という形で明治以降の天皇制国家の原像のひとつになったはずだ。


ところで、日本の近代的国民国家の源流は律令国家の記憶だけではない。明治初期の立ち上げの時に、ムラやマチなどの共同体と国家の強引な接合が行われたこともまた事実だ。たとえば、ムラの鎮守が国家神道の体系に組み込まれているし、「国民の登録」である戸籍の編成も人別帳のシステムを利用して行われている。国民の意識の中では、共同体が拡大したものが国家だったのではないか*2。ここには、もう一つ別の、国民国家日本の起源がある。

明治まで続いたムラは、おおむね中世に生まれた惣村が原型になっている。自治や自衛能力のある共同体だ。基本的には農民の共同体だが、もちろん、その内部には階層があり、多様な職業がある。被差別民や奴隷、承認、聖職者や武士も内包していたはずだ。領主の支配からも自由ではなく、公地公民制の記憶を通して中央集権への意識も持っている。交易や交流も戦争もしているし、単純な民衆の共同体ではない。でも、古代の社会からは確実に切れている、そういう存在が、室町時代の初期には生まれてきた。

もちろん、そののち、特に近世にはその力をかなり奪われ、武士とも切り離され、大規模経営が家族制の中農に均質化されて自治も弱まるのだが、強い絆を持った共同体としての性格はそのまま維持され、江戸の末期までムラは社会の重要な部分であり続けた*3。明治の国家はそれを統合したのだと思う。無数のムラの上に国家が乗ったのだ*4。ムラ人の側から見れば、近代には、共同体の一員であることが国家の一員であることとイコールであったろう。つまりここでは、生活の実感がナショナリズムと地続きになっているわけだ*5

天皇制の記憶とムラの伝統が、近代になって西洋の影響のもとで作られた国民国家の中核に組み込まれる。それは、後になれば「日本という国民国家は伝統的なものだ、というふうにも見えるだろう。もちろん、それは誤解だ。まず歴史があり、外的な要因によって動機を与えられた人々がそれを利用して新しい体制を組み立てるのだ。そして、こうした素材が、近代国家としての日本、国民としての日本人に影響を与えているはずだ。

まず、中央集権的であり、かつ氏族社会の変形として家族主義的でもある国家観がある。「天皇を中心にまとまるのが日本人だ」「みな、陛下の赤子だ」というわけだ。そしてもう一つは閉鎖的な共同体としての国家観だ。「我々の仲間でないものは日本人ではない」という感覚。つまり、中央集権的かつ排外的なナショナリズムだ。否定しても始まらない。日本人はそういうものを持っているのだ。問題は、それをどうするかだ。

このままでよいのか?良くないに決まっている。侵略と戦争と差別の近代史の教訓があり、高齢化と人口減少という課題もある。日本が排外主義や君主制の中央集権体制(帝国主義だ、つまり)に安住することは許されない。

ではどうするのか。日本の近代国家は歴史に散りばめられた要素を再編して組み上げられた。ならば、それをもう一度やるほかない。日本の社会、日本人の意識、国民の神話をどう組み変えるのか。 ナショナリズムや国際社会とどう向き合うのか。文化や歴史の違う人たちとどう共生するのか。今、僕たち日本人が直面している課題はそういうことだと思う。

*1:もちろん、「辺境」や「バウンダリー」は存在しただろう。また、中世の「日本」の範囲は「北は津軽外ヶ浜、西は喜界が島」と言われていて、蝦夷地や琉球は含まれない

*2:もちろん、すぐに国家への忠誠が確保されたわけではなく日清戦争あたりまでかかったし、人口の移動や都市化もあったのだが

*3:ここではあまり触れていないが、こうしたムラの誕生や変化の背後には生産関係の変化が当然あるはずである。大雑把にいえば、近世初期に日本は奴隷制からの離脱をかなり完了する。戦国期の惣村は、奴隷制大家族の連合とも言える面もあったことは銘記されるべきだろう。

*4:そしてもちろん、その後に共同体は巧みに無力化され、解体されるのだが

*5:もちろん、このとき「庶民」とは誰か、というのは問題である。ムラの知識層、富・中農層に最も強いナショナリズムが見られたことは想起されるべきだ

1月17日に

(数年前に書いたものを転載。阪神淡路大震災は、僕にとってはとても個人的な経験だった)

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兵庫から引っ越して住んでいたので、僕は、直接被害にあったわけではない。

朝、寝ているときにすごい揺れが襲ってきて、それでもテレビで速報をちょっと見て、また寝た。朝のニュースで、随分震度が大きいことを知る。それでも、まだ神戸の話だと思っていた。西宮の本家に電話が繋がらないのも輻輳だと思って、車で仕事に出た(そのころはまだ勤め人だったのだ)。

高速道路を走っている最中に、ものすごい余震が来た。これはただごとではないのかもしれない、と思ったのはその時だ。仕事の休憩時間に阪神高速とか、伊丹駅とかの映像を見て、家に帰ってから、西宮の家が全壊したことを知る。まだ携帯電話もなかったから、家とか、駅前のボックスとか、色々なところで電話をかけた。祖父が亡くなり、叔父一家は知り合いのところに避難していた。

現場に入ったのは、その翌々日、1月19日のことだ。電車は西宮北口までだった。線路の横を延々と歩いた。大正時代に祖父が建てた家は、完全にぺしゃんこになっていた。肩の高さに二階の屋根があった。祖父の遺体は近所の学校に安置されていた。霊安室に使われていた教室に入ると、死の、独特の匂いがした。

そういう時に必要以上に深刻にならない、というのがうちの一族のふうで、叔父一家も、手伝いにきた従兄弟たちも、結構陽気に振る舞っていた(あるいは被災地全体の雰囲気がそうだったかもしれない)。叔母は近所で助け出された老婦人が開口一番「誰がお婆ちゃんやの!」と言ったという話をした。叔父がカメラを掘り出してきて、親戚一同で記念撮影をした。あたりは壊れた屋根から出る土埃にまみれていた。風が強くて、猛烈に寒かった。僕らは思い出を頼りに瓦をどかし、土壁を分解して、少しでも物を取り出そうとした。もっとも、それは簡単なことではなかった。おじいちゃんはあまり片付けの得意な人ではなかったし、家は何十年分もの生活用品だけでなく、商売をしていた時の在庫品まであふれていて、そもそも足の踏み場もなかったからだ。なんとか、仏壇だけは見付け出した。箪笥があったあたりから、大きな宝石が出てきて、一同首をひねった。

「あの記念をやった時におじいちゃんがおばあちゃんに贈ったやつやないかな?」「あれかあ。おばあちゃん『もったいない』言うて仕舞い込んでたもんなあ。亡くなってからわからんようになってたんや」 「これ、ずっと開けられへんかった箪笥やろ。物が積んであって(笑い)」
「あの記念」って何のことなのかさっぱりわからない。でも何となくほっとできる。親戚独特の会話。そして笑い。


笑い。


そこは、僕らがずっと時間を積み上げてきた場所だった。暗かった客間。ガラス戸のついた縁側、正月に大人たちが麻雀をした座敷、改装してオレンジの傘の蛍光灯がついた台所、特別な時にしか使わなかった大きい方の玄関と洋間。古寂びた庭石があった日当たりの悪い庭。地震でぺしゃんこになっても、それは僕らの中にちゃんとあった。たかが地震なんかで、それが壊されるわけはなかったのだ。失なわれたものは失なわれたものだった。だけど、僕らはちゃんと生きていて、またやっていくのだ。笑って、そう思った。

翌日、知り合いの職人さんが重機を入れてくれて、片付けは急速に進んだ。祖父の葬儀は、千里山に移転していた菩提寺で取り行なわれた。お寺出入りの葬儀屋さんが、半日かけて西宮から吹田まで霊柩車を走らせてくれた。大阪だったので仏事に滞りはほとんどなかった。僕らは色々な意味で幸運だったのだ。

数ヶ月後、親戚一同が西宮市からの不思議な書類を手にした。負債の相続通知だった。滞納していた税金の請求だ。祖父は「何かうっとおしい」という理由で、何年も都市計画税を踏み倒していたのだ。合計すると、かなりの金額になった。宝石がその支払いに当てられたのかどうか、僕は寡聞にして知らない。

戦死者の慰霊について考えたこと

ツイッターに書いたことに少し加筆してまとめ。フェイスブックとは重複御免。

僕は、この件に関して、塚本学さんという歴史研究者が「「戦没者追悼平和祈念館」と地方史」という論文(エッセイ)http://ci.nii.ac.jp/naid/40002374704 …にまとめられた見解に多くを教えられた。ただ、ウェブでは公開されていないので、一部引用を交えて紹介する。
ここでは戦没者の慰霊をどう考えるべきか、という問題が提起されている。塚本はまず、幕末・戊辰の内戦に思いをはせる。靖国神社にはもちろん「皇軍」の側の人だけが祀られている。つまり、幕府側について闘った人は入っていない。その結果、ややこしいことに禁門の変で戦士した会津藩士は祭神になっているが、戊辰戦争で戦死した会津藩士は祀られていない、というようなことになっている。しかし、実際に闘いが起こった場所では幕府側、朝廷(新政府)側の死者がともに慰霊されている場合が多いのだそうだ。塚本はこれを「もともとは両者をともに異境で不慮の死を遂げたとみる目であったのではなかろうか」と述べて、慰霊は政治的文脈を抜きにして行われるべきだ、と主張する。この考えを太平洋戦争にも援用してはどうか、というのが論文の主旨だ。

少し引用する。

「…戦争の性格規定こそ先決でもあり出発点でもあるとし、個々の経験とそれに根ざす感情とを狭量な視野として退ける感覚があるとすれば、私はこれに反対する」
「個々の戦没者の生死を、大日本帝国の戦争貴任の糾弾にくらべて片々たる些事とみたり、かれらの死を、指弾さるべき行為の必然の結果として一括できるかの感覚が、もし歴史研究者のなかにあるとしたら、私はこれに与することができない」
戦没者に比べてはじめから賢明なるがゆえではなく、戦没者の生死から学びとって得られる賢明さこそが期待される」

これは、言うまでもなく、戦死者の慰霊を否定しない立場である。しかし、話はこれだけは終わらない。逆の政治的文脈からも相対化されることが慰霊には求められるからだ。塚本は言う。戦死者の慰霊に「死後もむくわれていないという思いが、…及ぼされるとしたら、そうした感覚は否定されなければならない」 「天皇への忠誠と敵国への強烈な敵意との志を遺書に遺した戦没者も少なくない。そのような遺書は、痛ましい歴史の証言としてかれらの生死の貴重な記録であり、後世に伝えられるべきだが、そのような志を継承すべきではない」。
しかも、「戦死」というのも一様ではない。「最後まで戦友の友情に包まれた美しいはなしもある反面に、飢餓や海没の状況で、自分の生命を守るために友人の生命を犠牲にするといった場面もあった」。また、軍隊内での階級による差別もあり、私刑による死、自殺や逃亡・抗命による死もあり、それらが「戦死」として処理された場合も事情がオープンにされた場合もあった。もちろん戦犯の問題もある。
また、塚本は「ごく少数ながら、戦争に反対し、ないし戦時体制への批判者として獄中に生命を落としたひとがあった。かれらも戦没者として意識するのがただしいと私は考える」という指摘もしていて、この点も重要だと思う。
そしてもちろん、当時日本の植民地とされていた地域から徴兵、徴用されてきた人々のことも忘れることはできない。その人たちも様々な思いや事情があったはずだし、なくなった状況にもさまざまなことがある。また、軍人・軍属ではないが軍隊とともに行動して命を失った人もあるだろう。その人たちも「戦争のために不慮の死を遂げた人」であるに違いない。
さらに、(これも塚本の指摘にあるのだが)住んでいるところを戦場にされてしまった人々のことがある。『レイテ戦記』で指摘されるようなフィリピンの人々、太平洋の島々、東南アジア、中国、沖縄からアリューシャンに至るまで、さまざまな土地で戦争のために家を焼かれ、命を失った人たちがいる。むろん、日本本土の空襲による死者もこれに加わるだろう。
そしてさらにさらに、これは塚本がオミットした点なのだが、連合国側で亡くなった人々のことがある。捕虜として、「スパイ」として日本軍の管轄下で亡くなった人がいるし、戦死者を除外する理由もない。これらすべての人々が戦没者であり、追悼、慰霊の対象である。

もちろん、全ての対象者を常に慰霊することはできまい。地域によって、施設によって偏りが出ることは自然なことだと思う。だけど、志としてはそのように考えられるべきだと思うのだ。意義や意味によらず、全ての戦没者を追悼するということだ。総理大臣が参拝するのは、まさにそのような施設であるべきだろう。そして、そのための施設として靖国神社が作られているとも、それにふさわしいとも思わない。